自殺しない回路
 
 
 皆さんは、「認知的不協和」という心理学用語をご存じでしょうか。
 
 字面からは今ひとつ想像が付きにくいでしょうが、「精神内に葛藤・矛盾による苦痛が生じた場合、それが『意味のあることだ』と、現実を捻じ曲げてでも理由付けを行い、肯定しようとする」精神防衛機構のことです。
 分かり易い例が、親から子への暴力を「躾」とか「愛の鞭」と思い込もうとする現象です。社会一般において「子供を愛さない親はいない」というイデオロギーが強すぎるため、単に親の個人的感情から来ている虐待行為を、「厳しい愛情表現」であると、親も子も思い込もうとするわけです。
 
 子供は親に依存しないと生きていけませんし、上記の強力なイデオロギーがあるため、「自分は親に愛されていない」と認めることは大変難しいことです。もし、これを認めてしまったら、自分の存在価値を見失い、自殺してしまう可能性もあります。
 こうした事態を防ぐために、この「認知的不協和」は精神の働きとして存在します。これを「自殺しない回路」と呼ぶ人もいますが、まさに最大の自己否定=自殺を食い止める最終防衛ラインであり、決して大げさな表現ではありません。
 
 しかし、この認知的不協和は、総合的に見て、決してよい精神現象とはいえません。なぜならば、「無理」がその基本だからです。無理から来る歪みは、必ず別の形となって問題を引き起こします。
 
 まず、大変に押し付けがましくなります。認知的不協和は、それを心の底では嘘と知りながらも、認めがたいあまりに本当と思い込もうとします。しかし、根本が嘘であるためそこには自信がなく、他者による肯定を必要とするのです。
 
 例えば、心理学の世界では、「のろけ」は認知的不協和に基づく行動とされています。カップル間が上手くいっているからのろけるのではなく、上手く行っていないのにそれを認めたくないから、必要以上に「自分たちは上手く行っている」と過剰に他者にアピールすることで、自己暗示をかけているわけです。
 一時期話題になった「バカップル」なども、公衆の面前で醜態を晒さなければいけないほど実は追い込まれている、と理解することが出来ます。宗教のしつこい勧誘なども、これと同じ心の働きです。
 
 他には、いわゆる「説教」も認知的不協和に基づく行動です。説教とは、ずばり自分の人生観を絶対的なものとし、他者に押し付ける行為です。つまり、説教がましい人間と言うのは、のろけるカップルと同じく、不安で塗りたくられた自分の人生観を正当化するために、他者を利用して自己暗示をかけているわけです。
 人生のアドバイスと称するものを注意深く聴いてると分かるのですが、その人がアドバイスと呼んででいるものは、相手の背景など視野に入っておらず、自分が人生のどんな場面で苦労し、いかにそれをしのいだかという不幸自慢である場合がほとんどです。
 また、私がこうした人々を観察していて気づいたのが、やたら年上・目上であることを強調し、それを説教の正当化に結び付けようとする傾向が強いことです。つまり、時間や立場と言う逆転困難なものを盾にして、自分のポジションを常に相手の上に置いておかないと満足にものが言えないほど、人間が脆いのです。
 
 認知的不協和の弊害はこれだけではありません。大変「視野が狭くなる」のです。
 認知的不協和は、自己暗示に基づく偽りの自信によって成り立っています。つまり、認知的不協和に陥っている人間にとって、この自信を肯定するものは善であり、逆に否定するものは悪であるわけです。
 
 これは私が行った実験なのですが、認知的不協和から私と意見が対立しているAという人物に、私の意見を代弁するあるテキストを読ませてみたことがあります(ご丁寧に、強調したい部分にラインまで引いて)。すると、Aは、私の考えを理解するどころか、むしろAにとって都合のよいところだけを抜き出し、Aの意見肯定の根拠にしてしまったのです。
 私にしてみれば、このテキストのどこをどう読めばそういう発想に至るのかという感じでしたが、自己肯定のためならあらゆる解釈をねじ曲げてしまうところが、認知的不協和の恐るべき威力なのです。
 
 上記のように、認知的不協和は己の命を守る命綱でありながら、その一方で様々な弊害を招きます。そして、その場しのぎはもたらしても、根本的な解決はもたらさないので、総合的に見てマイナスの方が大きいのです。
 
 この認知的不協和の罠に対抗する方法はただひとつ、「唯物論」という哲学だけです。
 唯物論というと反共主義者は眉をしかめるでしょうが、共産主義と唯物論は全く別の概念です。単にマルクスとエンゲルスがこれを両方用いた、というだけの話です(ちなみに、この二人は本当の意味で唯物論を使いこなすことが出来ませんでした。この話は機会を見て後ほど)。
 
 少し話が横に逸れましたが、この唯物論というのは一言で言うと、「そこに存在するものだけが真実である」というものの考え方です。どんなに自分にとって認めがたかろうが、価値が見出せなかろうが、嫌だろうが、「結果から逆に辿って、最後に残ったものは問答無用で真実とする」。また、現時点では原理や存在が分からないものは率直に「今は分からないと認める」という、大変シビアな、それゆえに真実に手が届く発想法です。
 
 たとえば、ほんの数百年前まで、人類は地球を平らな円盤だと思っていました。それが世間の、いや世界の常識でした。しかし、今日では逆に地球は丸いというのが常識になっています。常識など所詮はその程度のものなのです。結果から導き出された真実の前には、脆くも崩れ去るしかないのです。
 
 常識という色眼鏡を外すと、色々な真実が見えるようになり、またそれを受け入れるのが苦痛ではなく、むしろ快適になります。
 次回は、世界を席巻している、ある常識の殻を、唯物論というハンマーで木っ端微塵に打ち砕く、そんなお話をしてみたいと思います。
 
 

 
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