医 は 仁 術
 
 
 今回は、精神医学の罪について語りたいと思います。
 
 日本の精神医学は残念ながら、先進国と呼ばれる国の中において、非常に低いレベルにあります。技術面も低いのですが、医師・心理士たちの人権意識を筆頭としたメンタル面が、非常に低いのです。その最たるものが、精神病院の代名詞となっている鉄格子でしょう。
 精神病院には他にも、拘束具、施錠、即効性の鎮静剤、数々の行動制限などが周到に用意されています。そして、これらはいずれも、「お前たちを信頼しないぞ」という、拒絶のメッセージを強く放っています。相手を信頼しないところから始まる医術とは、なんと寒いものでしょうか。
 基本的に、日本の病室は4床単位の相部屋が基本になっており、個室は非常に高額で、数も少ない。入浴も日時が決められきっており、日常に能動的な活動や娯楽性は皆無です。まさに、息を抜くことが許されぬ環境です。
 
 私は、以前心が健康な状態を「心が安息であること」と定義づけましたが、このような拒絶を示し、窒息しそうな空間に長期幽閉されて、なぜ心に安息が得られましょうか。
 
 かつて、宇都宮病院と言う精神病院がルポライターの潜入調査で人権蹂躙の実態を暴露され、一大ニュースとなったことがありますが、残念ながら、人権意識面において、精神科医たちの多くは当時から何の進歩もしていないといわざるを得ません。
 多くの児童福祉家の間で、何十年にも渡り、都立梅ヶ丘病院(旧名・都立梅ヶ丘精神病院)と言う機関が問題視されているのですが(※公的機関ですので、実名を挙げさせていただきます)、今なお改善の楔を打ち込めないでいるという無念な現状があります。
 少々古いデータなのですが、強制入院率は、イギリス5%に対し、日本が95%という異常な数値を見せています。また、イタリアでは入院そのものが法で禁止されています。こうして海外に目を向けると、日本の司法と精神医療の異常性が明らかになります。
 
 前論にて、罰は解決をもたらさないと結論付けましたが、医師を筆頭に、警官、司法家、政治家といった職の者たちが犯した罪だけは、例外的に重罰を以て臨まねばなりません。それは、彼らが「自ら望んで」責任の重い立場に就いているからです。
 自由とは、無限の責任と表裏一体を成しており、責任を負えない者は、これら他者の人生を大きく左右する職に就くべきではありません。言い換えると、自ら望んで就いたからには、泣き言も怠惰も失敗も許されないということです。
 プロとは、その道で禄を食んでいるからプロなのではなく、素人には真似の出来ない気概と手腕を示すことにとより、畏敬の念で認められるからプロなのです。略称であるプロと書くとなんとなく軽い響きに聞こえてしまいますが、「プロフェッショナル」という、本来の呼び方を用いると、その重さが実感できると思います。
 
 医療の世界は、精神医療に限らず、様々な部分がいびつに歪んでいます。悪法を改め、医を本来の仁術の道に戻すのが、選挙権を持つ国民ひとりひとりの、権利と義務のひとつであるといえるでしょう。
 
 
 
 
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