第〇章 はじめに
 
 バブル崩壊からすでに一〇年以上。平成大不況と言われ続けて久しいですが、なぜ一向に景気が回復しないのでしょうか。
 答えは簡単、経済システムに問題を抱えているからです。
 日本は資本主義の国ですが、実はこの資本主義そのものに大きな欠陥があるため、日本の再浮上を阻んでいます。
 なぜ、バブルは崩壊したのか。なぜ、サラリーマンら労働者たちの生活は楽にならないのか。なぜ、犯罪や戦争が起こるのか。なぜ、政治家や公務員は堕落するのか。資本主義に取って代わる政治・経済システムは本当に存在しないのか。
 本書では、これらの問題をひとつひとつ分かりやすく解説し、「我々はこれからどうすればいいのか?」という疑問に対し、明確な答えを出していきます。
 

 
第一章 資本主義のカラクリ
 

資本主義のカラクリ
 
 現代、日本を含めた世界各国で、資本主義という社会・経済システムが、スタンダードとして受け入れられています。
 しかし、実はこの資本主義というシステムは、構造そのものが破綻しているのです。
 そのことは、皆さんの周囲を見渡して戴ければ、様々な社会問題という形で、ご理解戴けることでしょう。
 そこで、この章では、資本主義にどのような問題点があるのかを、考察していきたいと思います。
 
 
資本主義とは
 
 資本主義とは、以下の要素を持つシステムです。
 
@金銭によって、物品やサービスなど、様々な「何か」を購入することができる。
A財産の個人所有が、認められている。
B生産手段や住居の確保に、大金が必要である。
C生産手段、土地家屋、金銭を持つ者は、持たぬものに貸与し、搾取することが認められている。
D遺産の相続が認められている。
 
 @から順に、検証してみましょう。
 資本主義の社会では、食料のような物品のみならず、娯楽や商業サービスなど、ありとあらゆるものが、金銭を媒介として取り引きされています。
 これが、煙草やゲーム、フグなどといった嗜好品だけなら特に問題はありません。
 しかし、基本的な衣食住や、医療や司法、各種保険、生産手段。こういった、生命や人権に直接関わるような要素までもが、金銭で取り引きされているのが資本主義です。
 これは、「金のない奴は、野垂れ死ね」と言っているのに等しい。すなわち、資本主義というのは、福祉の精神と正反対のベクトルを持つシステムなのです。こういう社会の中で、人道主義を美化しても、残念ながら、虚しいだけでしょう。
 
 AとBは、C……すなわち資本家が「不労所得」を成立させるための、必須ファクターです。
 貧者から生産手段や住居を奪い、貸与することによって、本来受け取れるはずの労働賃金から約七五パーセントを天引きし、さらに手取りから家賃をも搾取するわけです。
 もちろん、場合によっては税金も駐車場代もかかる。資本主義は、これを合法として容認しているわけです。
 ちなみに、よく叩き上げの有名なタレントや漫画家が、資本主義社会での成功者(=金持ち)として扱われます。しかし、身一つで稼いでいるような人間の個人資産というものは、不労所得で稼いでいる人間に比べ、実はそれほど多くはないのです。
 
 以前、大手ゲームメーカーS社の会長が、経営不振の会社を生き延びさせるため、個人資産を八五〇億円つぎ込んだことがニュースになりました。これはつまり、自社株や経営権などとは別に、さらに八五〇億円以上の、自分だけの財産があったということです。
 いくら、タレントや漫画家が印税で儲けても、さすがにここまでは稼げないでしょう。これほど、不労所得(ピンハネ)とは儲かるものなのです(もちろん、この利益はピンハネされた者の犠牲の上に成り立っていることをお忘れなく)。
 また、貸与するかどうか、雇うかどうかの最終的な決定権は、資本家が持つことになります。このため、労働者は貸し渋りやクビを恐れて、資本家に媚びなければいけないわけです。これでは、奴隷とそう変わらないでしょう。
 資本家が人格者なら、労働者たちも自然と敬意を払うでしょうが、搾取で食おうという連中が、人格者なわけがありません。これでは、人心が荒んで当然です。
 
 Dは、「親が資産家というだけで、親の死後も遊んで暮らせる状態が続く」人間がいるということは、「親が貧乏というだけで、親の死後も死にもの狂いで働かなければならない」人間が同時に存在するということです。
 こういう話をすると、「貧しければ、努力をすればいいのだ」という、稚拙な一言で片付けたがる、分かってない人が跡を絶たないのですが、これに対する反論については、後述します。
 ともかく、以上の分析によって、資本主義というのは、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」というシステムであることが、お分かり戴けたことと思います。

 
努力すれば報われる?
 
 資本主義支持者が、貧者に対してとかく何かのひとつ憶えのように唱えるのが、「努力をすれば報われる」という言葉です。
 ところが、彼らの言うところの「努力」には、三つの大きな欺瞞(あるいは無知)が隠されているのです。

 努力万歳党が好んで用いる、「兎と亀」というイソップの寓話があります。この話のあらすじは、のろまな亀が一所懸命走って、油断して居眠りした兎を追い抜き、先にゴールするというものです。
 一見、「頑張れば報われるのだ」という話のように見えますが、何か違和感を感じないでしょうか。
 実はこの話、兎が油断しなければ、亀は絶対に勝てないのです。そしてこのことは、現実世界にも当てはまります。
 
 ちょっと考えてみましょう。時間というものは、ありとあらゆる存在に公平に流れていきます。資本家だろうが貧乏人だろうが、一日は二四時間しかありません。
 しかも、そのうちいくばくかは、睡眠・食事・排泄などで浪費することになります。睡眠時間を、ナポレオンよろしく三時間としても、併せて最低四時間はかかるでしょう。
 さらに、日々の糧を得るために、労働者は一日に八時間働かねばなりません。このような非人間的生活によって、努力に費やせるのは一二時間となりました。
 今度は、遊んで暮らせる人間の視点で見てみましょう。この資本家氏が、一日あたり八時間の睡眠と、その他の所用で二時間かかるとした場合、この人物は、一日に一四時間を努力に費やせることになります。
 
 つまり、潜在能力が同等である場合は、これだけ時間と生活を切りつめて努力しても、資本家には絶対にかなわないことが分かります。もちろん、資本家が油断して怠けるなどという保証は、どこにもありません。
 さらに言えば、金があるということは、収入に繋がらない煩わしいことは他人にやらせたり、高性能な道具や豊富な資料を使って作業能率を上げることができるわけですから、その差はもっと広がることになります。
 
 余談ですが、イソップの話というものは、「狐とブドウ」のように、皮肉っぽいものが多いので、彼自身としては、筆者の主張と同じ意味で用いたのかも知れません。
 教条的な話というのは、「健全な精神は、健全な肉体に宿れかし(この表記が本来のもの。「宿ったらいいのになあ」という、希望的な意味になる)」のように、後の人間が勝手に改ざんして、悪用するものですから。
 
 二つ目の問題点は、努力万歳党の人間が、「すべては有限である」ということが分かっていない(あるいは、ごまかしている)ということです。
 「努力をすれば報われる」という発想は、言い換えれば「努力をすれば手に入る」ということになります。
 しかし、物理の基礎である「質量保存の法則」や「エネルギー保存の法則」を見て分かる通り、この世のあらゆる要素は有限です。
 そのため、物質が一〇〇しかないところで一〇人が同じだけ努力したならば、一〇の努力をしようが、一〇〇の努力をしようが、一〇〇〇の努力をしようが、手に入るのは、各人ともに一〇の物質です。
 もし、誰かが突出して物質を手に入れたならば、それは搾取や競争(=蹴落とし合い)という形を借りて、誰かから奪ったということです。
 これが平気な人間は、冷血漢以外の何者でもないでしょう。
 
 そして、三つ目の問題が、資本主義の世界では成功の概念が、「金持ちになること」……つまり、「誰かを蹴落とすこと」「誰かから奪うこと」になっているということです。
 このため、どんなに心優しい人間でも、否応なく、他人を貧乏地獄に蹴落とすために努力をする羽目になってしまうのです。
 本来、努力というのは、自分自身に打ち克つためにすることのはず。筆者も、こういう努力なら大歓迎です。しかし、資本主義の世の中では、一〇〇メートルを二〇秒で走っていた人間が、タイムを一七秒に縮めたところで、まったく評価されないのです。
 
 このことは、学校教育にも現れています。テスト、徒競走などの順位付けを巡り、「順位付けなど廃止しろ」「それは悪平等だ」などと議論が交わされていますが、筆者に言わせれば、「なぜ、参加が任意ではいけないのか?」というところです。
 順位を競いたい人間は競えばいい。競いたくなければ、競わなければいい。順位がどうこうより、全員強制参加(あるいは非参加)の全体主義の方が、よほど問題でしょう。
 
 以上の理由から、資本主義の世界では、努力という言葉が、非常に空しい代物に成り下がっていることが、お分かり戴けると思います。
 資本主義万歳党の人間たちは、とかく「悪平等」という言葉を遣いたがりますが、このような物言いは、せめて上記のような「悪競争」を改めてから言って戴きたいものです。
 

足を引っ張る人は、なぜ現れるか?
 
 誰かが成功すると、そこには必ずそれを妬み、足を引っ張ろうとする者が現れます。
 そして、そういう者に対して、必ず「そんなことをしてる暇があったら、もっと努力しろ」などという者がさらに現れます。
 「足を引っ張ることを肯定しているわけではない」という前置きをした上で、こうした努力万歳党は、いささか思慮が浅い……と言わざるを得ません。
 努力万歳主義の無為については前述したので、今度は「なぜ足を引っ張る者が現れるのか?」について考えてみましょう。
 
 なぜ、成功者の足を引っ張ろうとするのか。答えは明白。その方が、「同レベル化」の実現が簡単だからです。
 資本主義世界は、金が金を生みます。前述したように、「自分が成功者の側に近づく」ことを目指す場合、この鉄則がある以上、よほど成功者側が油断しない限り、この差は埋まりません。
 一方、「成功者側を、自分に近づける」場合……すなわち妨害は、かなり簡単です。なぜならば、這い上がるよりも、妨害する方が、様々な意味でのコストが安上がりだからです。
 
 具体例を挙げましょう。政治の場で有力な妨害工作として、「怪文書」というものがあります。これははっきり言って、あることないことを書いた、ソースも怪しい誹謗中傷なのですが、実は別名「紙爆弾」とも呼ばれるほど、コストの割りに、絶大な威力を誇ります。
 実は筆者も一度、この紙爆弾を拝んだことがあります。
 筆者が昔住んでいたKという街の市長選の話です。このとき、立候補者は現市長O、市議会員A、それとあとひとり、名前も覚えていないXという三人の候補が立ちました。
 当時の現市長Oは、連続で何期も当選している人物なのですが、その悪政によって、すこぶる市民には評判の悪い人間で、某党のテコ入れと地主の力で当選していたような人物です。
 で、一方のAですが、当時の青島都知事に名前が多少似ておりましたので、「知事は青島、市長はA」などと、イメージ戦略を繰り広げ、O市長の悪政に辟易していた市民も、注目をし始めました。
 
 ところが、投票を数日前に控えた某日、一般家庭のポストというポストに、「Aは元某国の悪い政治家で云々」という、誹謗中傷を絵に描いたような怪文書が投函されました。
 これが影響したのでしょうか、結局Aは敗退し、Oの天下が続いた次第です。一応、Xという候補もいたため「犯人」の絞り込みはされなかったようですが、仕掛けたのはOと見て間違いないものと思います。
 なぜならば、Xはその時点で三位にあたる人物であり、二位のAの足を引っ張る理由がないからです。
 これは、成功者の側がしかけた妨害の話になってしまいましたが、費用(おそらく、一〇〇〇万もかかっていないのではないでしょうか)対効果の威力のほどがご理解いただけたと思います。
 また、もっと極端な話をすれば、敗者が成功者を刃物で刺し殺してしまえば、立場が逆転してしまいます。なにしろ、片方は死体になってしまったのですから。もっとも、敗者も相応のペナルティを負うわけで、下の下の方法であることは言うまでもありません。
 ここで言いたいのは、繰り返しますが、「資本主義下では、妨害の方が簡単だ。だから足を引っ張る人間が現れる」ということです。こんな社会で努力万歳を唱えても、虚しいだけなのです。
 足を引っ張る見苦しい人間がみたくなければ、真の自由社会を構築するよう、それこそ努力すべきでしょう。
 

バブルはなぜ崩壊したか
 
 九〇年代初頭にバブル経済が崩壊してから現在に至るまで、日本は一〇年以上に及ぶ、大型不況に見舞われています。
 なぜ、バブルは崩壊したのでしょうか。
 答えは簡単。物質が有限であるということと、「金とは何か」ということを、人々が忘れた(あるいは学ばなかった)からです。
 物質の有限性については先程触れたので、今度は「金とは何か」について説明します。

 まず、職業の分化が確立されている社会では、経済がすべての基礎になっています。本来、経済思想に過ぎない「資本主義」や「共産主義」が、同時に政治思想として扱われているのはこのためです。
 そして、経済の根本とは物々交換です。例えば、米作農家は服や家屋を造る技術を持たないので、それができる人間に米を支払うことで、服や家屋を造ってもらうわけです。
 しかし、何かが必要になるたびに、いちいち米だの肉だのを持ち歩くのも面倒なことですから、やがて通貨というものを発明し、その代わりとしました。
 
 通貨というのは、そのままでは単なる紙切れ、あるいは金属片です。これに、「肉〜キロ分の価値がある」とか、「2DK〜棟ぶんの価値がある」と保証しているのが、国家です。
 ですから、もし、日本政府が転覆し、円が廃止されたならば、すべての円はただのゴミになるわけです(まあ、コレクターにとっては価値があるかもしれませんが……)。
 このように、金というものは「国家によって保障された、物々交換の代替品」以上のものでも、それ以下でもありません。
 そのため、サラリーマンを筆頭とする労働者の給料が全体で一パーセント上がっても、物価も同じく一パーセント上昇するので、彼らの生活はいつまで経っても楽にならないわけです。
 
 では、なぜ日本経済は、歴史上類を見ないほどの急成長を遂げたのでしょうか。
 それは、「外貨」を他国からかき集め、なおかつ労働者から搾取したからに他なりません。
 「誰かが太れば、誰かが細る」……これが、経済の鉄則です。日本からの出稼ぎ労働者がアメリカで一〇〇〇ドル稼いで、日本に仕送りした場合を考えてみましょう。
 この仕送りによって、アメリカは「一〇〇〇ドル相当の何か」を失ったことになり、一方日本は「一〇〇〇ドル相当の何か」を手に入れたことになるわけです。
 そして、資本家は労働者から金を絞り取って、金を一極集中させます。そうすることによって、「戦力」の面では、欧米に劣らないものをひねり出すことができます。
 こうして、高層ビルや巨大テーマパークの建造、映画会社の買収など、色々と派手なことをやったので、見た目には、人々の生活が潤っているように感じられました。
 しかし、所詮は労働者から奪った金で建てたものであり、当の労働者たちは、自分の家を持つことすらままならないのが現実なのです。
 さて、以上の説明で「金とは何か」ということがご理解戴けたと思います。それでは、そろそろ「バブル崩壊の真相」についてお話しましょう。
 バブル当時、人々は土地や証券の売買、娯楽産業への投資といった、虚業に熱を上げていました。
 しかし、経済の基盤とは物々交換であり、さらにその基礎となるのは、「衣・食・住」に関することです。
 たしかに、娯楽は生活に潤いを与えます。しかし、いくら映画を見たり、テーマパークで遊んだりしたところで、生活そのものは、決して楽になりません。もちろん、金を左右に流すだけで、何一つ人々に貢献しない、土地や証券の売買などは論外です。
 
 その中でも、特に問題だったのが地価の高騰です。バブル崩壊後、地価が暴落したと大騒ぎになりましたが、実はその「暴落した値段」こそが、本来の正当な地価なのです。
 あの現象を分かり易く説明すると、「Aさんが持っている、本来一〇〇〇万円相当の土地をBさんが欲しがっているので、Aさんが意地悪をして、一億円という値段をふっかけた」ということです。
 もともと、「一〇〇〇万円ぶんの何か」に相当する価値しかない土地です。こんなことをやっていれば、いずれBさんが「じゃあ、もういいや」と言うのは当たり前です。
 それなのに、Aさんが九〇〇〇万円儲かるつもりで浪費していれば、破産するのは自明の理というものです。
 そして、Aさんに後払いの約束(=手形)で、九〇〇〇万円相当の物を売ったCさんがいれば、これまた代金が回収できずに破産。さらに、そのCさんの支払いを当てにしていた人間がいれば、バタバタと連鎖式に破産することになります。
 
 もし、すべての金が国内だけで回っていれば、結局、そのぶんの「何か」は国内に留まっているので、ここまで酷い状態にはならなかったでしょう。
 しかし、実際には輸入や在日外国人の仕送り、海外企業の買収などで、金は外国に流れていきます。そのため、戦後必死でかき集めた外貨が、浪費によって外国に流れてしまったのです。
 これが、虚業に溺れ、欲をかくことで成立していた、バブル経済崩壊の真相なのです。
 
 そもそも、バブル経済というのは、インフレ経済です。インフレであるということは、「金の価値が低い=国家が不安定」であるということ。たとえ好景気が原因であっても、インフレはインフレ。国家崩壊への序曲であることに、違いはないのです。
 日本は戦後、「搾取による、資本の一極集中」という方法で、赤貧・無資源・狭い国土という欠点を補い、さらに企業戦士たちの滅私奉公によって、まさに異例の急成長を遂げました。
 しかし、もはやその栄光も過去のものとなり、同じやり方も、すでに通用しなくなっています。この国が立ち直るためには、過去の栄光を一度捨て、新たなシステムを採用する必要があるのです。
 

贅沢を言わない仕事?
 
 就職氷河期といわれ続けて、もう一〇年以上になります。既にまともな職を得ている人間は、他人事とばかりに「贅沢を言わなければ、職はたくさんある」と口を揃えて言いますが、これは果たして、本当のことでしょうか?
 まず、こういうことを言う人間は、大まかに分けて二種類存在します。
 ひとつが、すでに自分が楽な椅子に座っているので、他人の痛みが分からなくなっているただの冷血漢。
 そしてもうひとつが、自分が酷い仕事に就いているという現実を、「認知的不協和」という心の働きで、無意識のうちにごまかしている心の弱い人間。
 前者は論外ですので、後者に的を絞って説明をしてみたいと思います。
 人間の心理には、「認知的不協和」……別名「自殺しない回路」というシステムが存在します。
 これは、かいつまんで説明すると、「辛い体験を、有意義なものだと思い込むことで、精神の崩壊を防ぐ」というものです。
 具体例としては、親が未熟なために愛されなかった子供が、「親は自分の将来を考えて、スパルタで接してくれたのだ」と思い込んだり、「土方仕事はきついけど、ビルが徐々に完成していくのが嬉しい」とやり甲斐を見いだすのが、これにあたります。
 
 断言しますが、どんなにそこに意味を見いだそうとも、苦痛は苦痛。ごまかしはごまかしです。
 これをわきまえていないと、LHS(愛情飢餓症候群)になり、「これが世の中なんだから我慢しろ」などと身のない説教を他人にするような、不健全な行動を取るようになります。
 LHSというのは、簡単に言うと、「子供のころ、親や周囲の人間に愛されなかったため、自他を愛する能力が欠如してしまった心理状態」です。こうなった人間は、愛情を与える以外の方法では、健康な精神状態になることは絶対にありません。
 LHSについて詳しく書くことは、本書のテーマとずれますので、いずれ機会を見て、別書などで語りたいと思います。ここでは、そういう精神状態の人が存在するのだ」程度にご理解ください。
 
 話を経済に戻しましょう。認知的不協和の悪用は、資本主義のような階級社会を維持するのに欠かせない心理現象です。これがあるばかりに、真実はごまかされ、いつまで経っても問題が解決しないわけです。
 自分の不幸に他者を引きずり込もうとするLHSたちの弱い心に、引きずり込まれないよう、真実を見極める目を持ってください。労働者たちが自分の職を自由に選べないのは、資本主義というシステムがそうさせているだけであり、本来不自然なことなのです。
 

金の価値は万人に等しい?
 
 あるタレント本を読んでいたところ、「金持ちになった今でも、一万円を落としたときのショックは、貧乏時代と変わらない」というような表記がありました。
 しかし、筆者はこの発言を、額面通りに受け取ることはできません。少し、検証してみましょう。
 
 まず、金というのは、同額であれば、同じだけの市場価値があります。
 額に汗を流して稼いだ一万円も、競馬で稼いだ一万円も、寸借詐欺でかすめ取った一万円も、同じように、「一万円ぶんの何か」と交換することができるのです。
 このように、労働の疲労度や苦痛と、収入が決してイコールでないため、巷では、価格や銘柄の不正表示や、手抜き工事が頻発している訳です。
 ですから、一万円を失ったショックそのものは、誰にとっても同じです。例え、濡れ手に粟で儲けた不労所得でも、「一万円ぶんの何か」が手に入らなくなった事実には、変わりがないのですから。
 
 しかし、この先が違います。月収一〇万円の人間が一万円を失うのと、月収一〇〇万円の人間が一万円失うのとでは、生活に受けるダメージが違うのです。
 月収一〇万円というのは、ギリギリの生活すら送るのが困難なレベルの収入です。ここから一万円を失ったならば、即座に生活不能に陥ります。
 一方、月収が一〇〇万円あれば、よほど無茶な浪費をしていない限り、一万円を失ったぐらいで生活不能になることはありません。
 このように、金銭の喪失による影響は、人それぞれの収入の度合いによって異なってきます。つまり、冒頭のタレント氏の発言は、単に「よく分かっていない」というだけのことなのです。
 一万円の価値が万人に等しいというのであれば、それは同時に、労働の価値も万人に等しくなければなりません。
 しかし、現実には、職業や知名度によって収入が違ってきます。高温の油の前で、一日中立ちん坊でフライドチキンを揚げている人間は、一時間で八〇〇円程度しか収入を得ることができません。
 一方、弁護士などは、エアコンの効いた部屋でデンと構え、法律の相談をチョチョイとするだけで、三〇分で五〇〇〇円もの収入を得ることができるのです。
 「弁護士だって、依頼者の間を駆けずり回ったり、証拠を集めたりで、色々と大変なんだ!」などという、安いっぽい反論に対しては、「外回りのヒラ営業マンも、同じことをやっている」という、さらなる反論を用意しておきましょう。人々の足元を見て稼ぐことが出来るから、他を犠牲にしてまで最難関と呼ばれる司法試験に挑む者が跡を立たないのです。
 
 労働の価値が等価でない以上、その労働から得られる収入の価値も、等しいわけがありません。しかし、その収入は市場の中で、あくまでも一万円なら「一万円ぶんの何か」、一〇〇〇円なら「一〇〇〇円ぶんの何か」と交換することしかできないのです。
 これが、資本主義というものなのです。
 

職業選択の不自由
 
 最初に結論を出しますが、日本には職業選択の自由はありません。
 こう書くと意外に思う方が多いことでしょうが、これは紛れもない事実です。お疑いならば、試しに履歴書の学歴を「高校中退」にして、様々な役所や一流企業を面接してみて下さい。多分、全滅するはずです。
 「そんなの、当たり前じゃないか!」と思った方。変だとは思いませんか?
 なぜ高学歴でないと、就職が阻まれるのでしょうか。
 少し考えてみると分かりますが、本当に高い学力が問われる仕事というのは、そう多くはありません。編集者・総務・企画・広報・営業・人事・学者などなど、学校のお勉強ができなかったからといって、業績に影響が出るとは思えないものばかりです。
 上記の職業の中に、「学者」が混じっていることに首を捻った方もいるでしょう。しかし、別に有名大学を出たからといって、人間心理が理解できたり、新種の植物が発見できるというものではありません。
 それなのに学歴が求められるというのは、LHSの人間が、日本に蔓延しているのが原因なのです。
 
 例えば、一流企業の人事部員になりたい人間がいたとします。もし、この会社が学歴を重視していたら、この人物は、その会社に受かるためだけに、不必要な学問を嫌々することになります。
 この人物が、精神的に成熟した人間なら、「いずれ自分が面接官になったら、自分と同じ苦痛を、後輩にも与えないようにしよう」と考え、学歴差別の悪習を断ち切ろうとするでしょう。
 しかし、この人物がLHSである場合は、自分と同じ苦痛(学歴差別)を、無意識に後輩にも味合わせようとします。一度このような悪循環が生まれると、精神の未熟な学歴差別主義者が会社に蔓延することになり、その会社は自浄能力を失って、根腐れを起こします。
 さらに、雇用者が雇用や配属の最終決定権を握っているというのが、そもそも間違いです。本来仕事などというものは、人それぞれ、やりたいことをやればいいのです。
 「そんなことを許したら、世の中が目茶苦茶になる!」と考える人もいるでしょう。確かに、ただ単に野放しにするだけでは、「プロデューサーだらけで、ADのいないテレビ局」や「社長だらけで平社員のいない会社」などといういびつな組織が、そこらじゅうに出現することになります。
 しかし、この段階で発想が止まっているようでは、少々お粗末というものです。要は、この矛盾を解決するためのアイディアがあれば良いのですから。
 もちろん、こう言い切る以上、筆者にはそのアイディアがあります。ただ、いささか分量があるので、これについては第三章「そして、自由階級主義」にて後述します。
 

働けば社会のためになる?
 
 若い時分、ある漫画雑誌を読んでいたところ、何とも不可解なコメントに出くわしました。
 その雑誌では、巻末に連載作家陣のコメントを載せているのですが、その号で新連載を始めた作家が、「今まで社会に迷惑をかけたぶん、天下取って報いるッス、ヨロシク!」という旨の発言をしていたのです(細かいディティールはうろ憶えですが、このような文面だったと思います)。

 その作風やテーマ、コメントの口調と内容から察するに、元暴走族が一念発起してカタギになろうとしたのでしょう。
 確かに、心がけは立派だと思います。しかし、「漫画家で大成すると、今まで迷惑をかけた社会のためになる」という発想は、はっきり言って謎という他ありません。
 これが例えば、漫画家として稼いだ金を、暴走行為などで迷惑をかけた人々に、損害賠償として支払うというのなら分かります。
 しかし、ただ単に働いただけでは、別段社会に対してプラスとはなりません。特に、娯楽産業である漫画家ではなおさらです。
 
 例えば、この漫画家氏の漫画が大ヒットして、一億円の収入を得たところで、路上生活者の生活が楽になったり、被差別者の人権が回復したりするでしょうか?
 もちろん、しません。では、漫画家ではなく土方としてビルの工事をした場合はどうでしょう。
 確かにビルは少し早く完成するでしょう。しかし、それで弱者の生活が改善されるわけではありません。なぜならば、労働者はその収入の七五パーセントを資本家に天引きされるからです。
 このため、雇用者である資本家が福祉に目覚めでもしない限り、社会が豊かになることはあり得ません。
 では、医療や福祉職だったらどうでしょう?
 これも、真に世の中に豊かに出来るわけではありません。資本主義で「職」とする以上、対価を受け取るわけですが、対価を受け取ると言うことは、真に貧しい者はその恩恵を受けられないということです。この問題は、特に健康保険の利かないカウンセリングなどにおいて顕著で、治療者も利用者も悲鳴を上げています。
 
 豊かな社会というのは、ビルが林立している状態ではありません。娯楽商品が、巷に溢れ返っている状態でもありません。誰も理不尽な苦しみを受けない、真の意味で弱者の存在しない世の中です。
 人々がただ漫然と働くだけでは、このような社会にはなりません。問題意識を持って、社会の運営システムを変えていく必要があるのです。
 

デフレスパイラルは止まらない
 
 現在、日本経済はデフレスパイラルという現象に見舞われています。
 デフレスパイラルとは、「不況になる→資本家は、人件費の安い海外に生産拠点を移す→国内の労働者たちの所得が減る→労働者の財布の中身に合わせて、商品の売価が下がる→売価が下がったので、さらに資本家は、海外生産に依存するようになる……」という、悪循環のことです。
 
 詳しく解説しましょう。物の値段というものは、「価格=需要÷供給×人件費」という式で表すことができます。
 つまり、「価格が下がる」という現象は、需要が下がる、供給が増える、人件費が下がるの、いずれか(あるいは複数)が起こったということです。
 デフレスパイラルの発端は、物を安く売る=人件費削減のために、資本家が海外の労働者を使うところから始まります。
 例えば、物価が日本の半分の国では、労働者たちは日本人の半分の給料でやっていける(=人件費が半分で済む)ことになります。
 しかし、その削ったぶんの人件費は国内ではなく国外の労働者の手に渡ります。つまり国内の労働者が貧しくなり、物を買わなくなる=需要が減るため、さらに価格を下げる=人件費を削らなくてはいけなくなり、かくてここにデフレスパイラルが誕生するわけです。
 
 はっきり言って、デフレスパイラルは、自由(=野放し)経済である限り、空前絶後の世界的なメイド・イン・ジャパンブームが来るか、さもなくば輸入・外国人労働者の仕送り・年金生活者の海外移住など、日本の資産が外国に流れる行為を一切禁止しなければ、回復することはありません。
 しかし、前者はあまりにも他力本願過ぎ、後者は資源がなく、食糧自給率の低い日本では、実現は困難を極めます。
 
 しかし、絶望することはありません。三つ目の手段として、自由(=野放し)経済を止め、各個人の収入を固定化するだけで、デフレスパイラルはピタリと止まります。いくら商品を売っても収入が一定ならば、わざわざ無理をしてまで海外で商品を生産し、稼がなくてもよいからです。
 こう書くと、「それでは、人間は努力しなくなってしまう!」というヒステリックな叫びが聞こえてきそうなところです。
 しかし、人間というのは本来、本当に自分のやりたい仕事をしている限り、放っておいても己の誇りとやり甲斐のために努力するものです。
 むしろ、投資の回収だけを目的とした、志の低い商品を売る方が、はるかに向上心を害します。
 自由(=野放し)経済である限り、壊滅状態になるまでデフレスパイラルは決して止まりません。そして、そんな頃には間違いなく食い詰めた労働者が蜂起して、内乱に突入していることでしょう。我々も、そろそろ発想の転換を必要とする時期に来ているのです。
 

宗教と資本主義は出会いの物
 
 宗教(儒教やオカルト全般を含む)と、資本主義や封建主義などの階級差別社会は、とても相性が良いものです。
 なぜなら、宗教の存在意義とは、問題の本質をごまかすことにあるからです。
 かつて人々は、落雷を「神の怒り」と考えました。そして、その「神の怒り」を鎮めるため、子供を生贄に捧げるという愚挙を犯してきたわけです。
 さらに宗教は、戦時において、「殉教すれば、楽園に導かれる」として、死兵(死を恐れない兵士)を作り上げるためにも利用されました。
 他にも、魔女裁判で知られる中世キリスト教会の暴走、近年のテロ事件など、宗教がらみの非人道的行為は、数え上げると切りがありません。
 
 いや、こういう分かり易い悪行であれば、「とんでもない奴らだ!」と、簡単に咎めることができるので、ある意味簡単です。むしろ問題となるのは、法に問われない、「ごまかし」という名の猛毒の方です。
 例えば、資本主義世界に生きる、ある貧しい人間が、苦痛にのたうち回って、宗教家の所を訪ねて来たとしましょう。
 この貧者に対して、宗教家は、資本主義というシステムの問題点について言及し、社会のシステムを変えなければならないと示唆する……などということはしないでしょう。
 せいぜい、「すべては、神の与え給うた試練」「世の中は理不尽なもの」「神を信じて祈れば、死後救われる」と、何の価値もない台詞を立て並べるのが関の山。ついでに食事の一つも出せば、ましな方でしょうか。
 
 これが、宗教というものの本質です。問題の本質をはぐらかすことにより、モルヒネの如く、社会的弱者の苦痛を和らげる。
 しかし、根本的な解決ではないので、この麻薬に溺れた人間に待っているのは、ただの衰弱死です。
 はっきり言って、宗教行為というのはすべからく、心理学的見地から見て病的であると言うほかありません。
 このような代物が、法にも精神医学にも問われないのは、以下の要因によります。
 
@勢力が大きく、結束力が固いため、容易に倒せない。
A社会構造の真実を明かされると困る、階級社会の支配層に庇ってもらえる。
B精神科医が無能。
 
 順に検証してみましょう。
 @は、ものにもよりますが、宗教団体は万単位の構成員を、神を頂点とした完全なトップダウン方式で束ねています。もちろん、神など存在しませんから、事実上のトップは教祖ということになります。
 トップダウン構造を持つ組織は、「外部の攻撃に強く、内部の腐敗に弱い」という特徴を持ちます。
 こういう組織を解体するには、圧倒的な戦力で一気に壊滅させるか(例:旧日本軍に対する連合軍)、内部腐敗が限界に達するのを気長に待つ(例:中世キリスト教会に対するルター)しかありません。
 つまり、警察や軍隊を以てしても、容易には解体できないということです。
 
 Aは、階級社会制度との、水魚の交わりといえます。階級社会とは、「支配者は、被支配者の生産したものを奪ってよい」というシステムです。
 もちろん、被支配者にとってはたまったものではありません。しかし、支配階級は教育を悪用して、「これがベストなシステムなのだ」と、刷り込むのです。
 このように、偽りを真実として教えられるため、被支配者の精神内には葛藤が生まれ、人心が荒みます。ここで登場となるのが、宗教です。
 
 宗教は、耳当たり良いが、全く社会構造の本質を説明していない言葉を弄することで、被支配者を、何となく救われたような気にさせます。しかし、結局何の解決にもなっていないわけですから、酷たらしい支配構造が、延々と続くことになります。
 宗教法人が相変わらず非課税なのも、やはり資本家である政治家たちと、持ちつ持たれつの関係だからなのでしょう。
 なお、こう書くと、@の内容と矛盾するようですが、そうでもありません。利害が一致している限り、わざわざ戦う必要はないわけですから。

 Bについては、見たままです。通常、存在しないものを見えるなどと言い張れば、治療対象となること請け合いです。しかし、これが「霊が見える」などという話になると、なぜか大目に見られ、あまつさえちょっとした人気者になる場合すらあります。
 何とも奇妙な話ですが、このことについて詳しく書くことは、本書のテーマとずれますので、いずれ機会を見て、別書で語りたいと思います。
 ただ、ひと言付け加えておきたいのが、精神科医もまた支配階級に属するので、Aの要素も併せ持つということです。このことも、精神科医が宗教を野放しにしている要因のひとつでしょう。
 
 問題というものは、認識・分析・意志力・手段の四つが揃って、初めて解決します。ですから、宗教という、このいずれの要素ももたらさない思想では、真に人を救うことはできないのです。
 なお、儒教は厳密には宗教とは言えませんが、敬意や感謝などというものを、儀式化してしまった時点で、やはり一種の宗教と化しています。また、儒教は年齢・性別・血統・身分、四つもの差別を肯定しています。こんなものが二千年以上も人々の意識を支配しているのは、恐るべきことです。
 
 また、こういう話をすると、「自分の知ってる宗教家は、見事な人格者だ!」という声を挙げる人がいることでしょう。
 しかし、「人格が優れている」のと、「賢い」のは別問題です。いかに人格が優れていようとも、愚かであれば、過ちを他者に伝播させることになります。
 さらに言えば、その優れた人格が、神仏を否定した途端に消え失せてしまうのならば、それは所詮、まがい物の人徳ということになるでしょう。
 
 さらに、「科学では解明できないことが沢山ある。だから、神や霊はいるのだ」という人もいるでしょう。しかし、ちょっと考えてみれば、この物言いが過ちであることが分かるはずです。
 「科学では解明できない」ということと、「神や霊がいる」ということは、イコールではありません。ただ単に、「現在の科学で解明できない」というだけのことです。
 人類は、ほんの数百年前まで、地球を平らだと思い込み、落雷を神の怒りだと考えていました。これらの事柄は、当時の科学力では解明できなかったものです(中には、解明できていたのに、聞く耳を持たれなかったものもありますが……)。
 普通に考えれば、「まだ解明できないのだから、安易な結論を出すのは止そう」と考えるところです。しかし、人々は結論を急ぎ、神や霊、妖精といった概念を創りあげ、「これらの存在の仕業である」ということにしてしまったのです。
 
 このような現象が起きる原因は、人間が、「理解できないもの」を、非常に嫌う生物であることにあります。
 例えば、前衛芸術というものを考えてみて下さい。これらは、はっきり言って、わけの分からない代物です。しかし、見た人間は、必死になって、そこに意味を見いだそうとします。
 他にも、古来より若者と老人の文化を筆頭に、異文化は衝突し続けてきましたが、これも相手の文化が理解できないのが許せないからです。
 この心理の不思議なところは、「理解できないのは理解できない自分の研究不足だから、理解できるように努力しよう」ではなく、「理解できないのは、対象の方が理不尽なのだ。だから、今の自分に理解できるものに変えてしまおう」と考えることです。この精神作用によって人類は、謎の現象を起こす存在「神」(あるいは「霊」や「妖精」)を想像の中で創りあげ、さらに異文化の壊滅・改変に力を注いできたというわけです。
 
 余談ですが、クローン技術に対する歯止めとして、「神に対する冒涜だから止めろ」と言うのは、無意味なので止した方がいいでしょう。
 なぜならば、科学者たちの仕事は、「神に喧嘩を売ること」だからです。彼らにしてみれば、挑戦意欲をかき立てられるだけですので。
 
 最後に、誤解を招かないように言ってきますと、筆者は別に、宗教を弾圧しようと言っているのではありません。ただ、あくまでも一種の趣味と割り切るべきだと言っているのです。
 「宗教は、人々の意識を真実から遠ざけるためにある」ということを完全に理解した上で、無理な勧誘もせず、税金をきちんと払って信仰を続けるのであれば、筆者から言うことは、何もありません。
 

資本主義は野生の掟?
 
 よく、資本主義を弱肉強食という、野生の掟に例える人がいます。そして、「人間も動物なんだから、潰し合いは仕方ないのだ」と続けるわけです。
 一見正しいようですが、この意見にはいくつかの無知(あるいは嘘)が存在します。検証してみましょう。
 
 まず、ここが大事なのですが、野生動物は遺産を残しません。例えどんなに備蓄があろうとも、親にとって、巣立った子はただの敵です。縄張りを侵そうものなら、容赦なく攻撃されます。この一事をとっても、冒頭の説が誤りであることが分かるでしょう。
 また、他にも、道具を加工する、芸術を愛でる、生存と生殖のみを生きる目的としないなどの、野生動物とは明らかに異なる特徴が沢山あります。
 このように人間は、確かに動物でありながら、しかし動物としては異常という、実に妙な生物となっています。ですから、「人間は動物だから」という弱肉強食を正当化する物言いも、いささか信憑性が薄いといえます。
 では、なぜ弱肉強食にこだわる人物が、こうも多いのか。
 
 その鍵は、やはりLHSにあります。
 LHSの顕著な特徴は、「幸福な人間を、自分の不幸のレベルに引きずり落としたくなる」というものです。
 例えば、「自分なりに上手に絵が描けた」と喜んでいる人間に向かい、「そんなのただの自画自賛だよ」と言って、わざわざ水を差すなどの行為がこれに当たります。
 そして、弱肉強食の美化も、これと同様です。こういうことをするのは、大体がLHSです。
 こういう人間にとっては、人と人とが、潰し合うことなく仲良くしているのが、不思議であり、なおかつ許せないのです。
 こうなると、精神内に激しい葛藤(嫉妬)が生まれ、幸福な人々を、不幸な弱肉強食の世界に引きずり込もうと、無意識のうちに考えるようになります。この結果が、弱肉強食の美化というわけです。
 このようにして、資本主義というシステムは、LHSの人々によって今日も支持され続けているのです。
 

下を見るな上を見ろ
 
 支配者と、その支配者の理屈に染められた人間が好んで遣う言葉が、「上を見るな、下を見ろ」です。
 もちろん、このままストレートに言いはしません。例えば、このようにやります。
 あるところに、金欠のせいで一か月連続、三食ともにカップ麺を食べている人物(A)がいたとします。
 このAが、「もっと、まともな物が食べたいなあ。政治家とかは、もっと良いもの食べてるんだろうなあ」とこぼしたら、心ない人間(B)はどう反応するでしょうか。
 多分、こう言うでしょう。「贅沢言うな! アフリカには、食べる物もろくにない子供もいるんだぞ。食べる物があるだけでも、有り難く思え!」と。
 
 この台詞の異常性について、分析してみましょう。
 まず、Aが、かなり酷い食生活を送っていることは事実です。そして、アフリカの子供が飢えていることは、この人物の責任ではありません(まあ、資本主義に疑問を抱いていないのであれば、僅かながら責任はあるといえますが……)。
 では、なぜBはAを叱咤したのか。
 答は、Aの台詞の「政治家とかは……」のくだりにあります。
 資本主義の世界では、収入によって、口にできる物に、かなりの差があります。毎日フグを食べても財布の心配のいらないような人間もいれば、閉店間際のスーパーで、半額売りの食材を買い漁っている人間もいます。
 こんな差が生まれる要因は、やはり資本主義にあります。何度もくり返しますが、資本主義では、労働者からのピンハネが認められています。ここに収入格差が生まれ、ひいては食事の質が左右されるわけです。
 不労所得で、暴利を貪る資本家にしてみれば、自分が不当に儲けていることを、労働者たちに悟られては困ります。
 
 そこで、Aよりも下の生活レベルの人間を持ち出し、「こいつらよりは、マシだろ? だから、お前の生活はそれほど酷くないんだよ」と、丸めこむわけです。
 事実、歴史の上でも、「カースト」や「士農工商」のような差別制度が、こうして悪用されてきました。権力者に対する怨嗟を和らげるためだけに、勝手に低い身分にされた被差別者にしてみれば、迷惑なことこの上ない話です。
 こう書くと、「じゃあ、Bは権力者という設定だったのか」とお思いでしょうが、そうとも限りません。例え、しがないサラリーマンであっても、権力者のペテンを鵜呑みにしていたり、LHSであったりすれば、同じことを言うのです。
 そのようなわけで、筆者から皆さんには、「下を見るな、上を見ろ」という言葉を贈りたいと思います。
 あなたの生活が苦しいのは、資本主義という階級差別社会のせいです。あなたより悲惨な生活を送っている人間がいるのも、やはり同様の理由です。第一、不幸とは比較するべきものではなく、全て等しく解決を計らねばならないものです。不幸の格付けほど、不遜な行為もちょっとないでしょう。
 どうか、安っぽいペテンに惑わされず、真実を見つめて下さい。
 

煙草と酒でボロ儲け
 
 海外はどうか知りませんが、少なくとも日本の喫煙者および酒飲みは、どうにもマナーがなっていません。
 例えば、喫煙者なら、交差点や踏切で平気で風上に立つ、周囲に吸っていいかどうか尋ねない、吸い殻を投げ捨てる、点火した煙草を振り回して歩く、寝煙草で火事を起こす。酒飲みならば、正体をなくして暴れる、道端に吐いたり放尿する、などなど。
 このような程度の低い行為がまかり通る原因は、やはり資本主義にあります。少し、このことを検証してみましょう。
 
 ご存じの方も多いとは思いますが、煙草と酒の代金の殆どは、税金として国に持っていかれます。つまり、国にとっては、非常にいい金づるであるわけです。
 ですから、毒ガスの発生源である煙草に、「吸ってはいけません」ではなく、「吸い過ぎに注意しましょう」などという、おためごかし以外の何物でもない注意書きが付いているのです。
 考えてみて下さい、「吸い過ぎ」というのは、一体、一日に何本吸うことをいうのでしょうか。まったくもって、要領を得ない表記です。
 もちろん、国の本音は「死ぬまで吸って、金だけ寄越せ」ですが、まさかそんなことを堂々と書くわけにはいかないので、こうして「一応、注意は促しましたよ〜」という、安っぽい言い訳をしているのです。
 
 酒の方も、労働後のストレス発散として飲む人が多いわけですが、そもそも労働者が感じるストレスの主な原因は、資本主義の軋轢によるものです。ですから、酒に税金を被せて売るというのは、まさに二重の搾取といえます。
 第一、煙草も酒も「摂取を続けると死に至る」、「下手なやり方をすると、他者に迷惑がかかる」、「覚醒感や酩酊感を覚える」、「常習性がある」と、効果が麻薬そのものです。これを国が率先して売り捌き、収入源にしているのですから、どうかしています。
 
 ちなみに、世の中面白いもので、マナーの悪い人間ほど、「愛飲(煙)家の権利」を声高に叫ぶ傾向があるようです。要するに、自分たちがどれほど他人に迷惑をかけているかが、分かっていないのでしょう。
 筆者自身は、煙草は吸いません。酒はたしなむ程度で、正体を無くしたり、二日酔いになるような無様な真似は、一度としてやったことがありません。これが、「弁える」ということです。
 
 無論、こんな人間ばかりになっては、煙草や酒の税収が減り、国庫に響きます。ですから、国は泥酔者やマナーの悪い愛煙家の愚行を看過することで、「大いに飲み、吸い、金を出せ」と、暗に誘導するわけです。
 最近やっと、東京・杉並区で歩き煙草に関しては罰則規定が設けらましたが、どこまで実効があるかは、はなはだ疑問です。
 罰によってもたらされるものは、抑制であって、解決ではありません。歩き煙草を本当に止めさせたいのなら、その自己中心的な人格とニコチン依存症を治療する必要があると言えましょう。
 

多数決の罠
 
 「大勢の人間が決めたことならば、それは正しい」
 集団の意志決定法として、日本で現在最も尊ばれている方法が、上記の精神を持つ「多数決」です。
 会社の会議や学校の行事内容の決定、そして選挙など、ありとあらゆる場面に、この多数決が登場しますが、果たしてこの方法に問題はないのでしょうか?
 もちろん、大ありです。そこで、ここでは多数決の問題点について、検証してみたいと思います。
 
 まず、多数決では、「意気込み」というものが考慮されません。
 「自分は、絶対にこうなって欲しい!」という人間の投じた一票も、「まあ、どっちでもいいんだけど、強いていえばこっち」という人間の投じた一票も、同じ重さの一票として勘定されます。
 一見、どうということのない話のようですが、これは、差別問題の解決……すなわち、マジョリティ対マイノリティといった場合に、大きな弊害をきたします。
 差別というものは、被差別者にとっては抜き差しならない問題です。しかし、逆に差別者は、よくて無関心、悪くすれば強烈な(本人は正しいことと思い込んでいる)意地悪をしてくるものです。そして、現状の社会は、こういう人間寄りに出来ています。
 もし、このような状況で、被差別者の苦しみを救うような事柄の決定を、多数決で決めたらどうなるでしょうか。
 無論、否決されます。中には「同和法」のように、稀に可決されるものもありますが、現実問題として有形無実の法であり、完璧に機能しているとは思えません。
 他にも、原子力発電所や米軍基地の設置問題などもそうです。例えば、○○県の××村の側に原発を建てるか否かの投票を、全国規模でやったとしましょう。
 恩恵よりリスクの大きい高い地域と、恩恵を受けるだけの地域が、同じ投票権を持っています。しかも、恩恵を受けるだけの地域の人間の方が、圧倒的に数が多い。これで、どんな結果になるかは、火を見るより明らかというものです。
 
 次の問題点は、「改革案が通りにくい」ということです。
 一応、人間というのは基本的に、己の身の安全を第一に考える性質があります(稀にそうでもない人もいますが)。
 この性質があるため、「ハイリスク・ハイリターンの改革案」と「ローリスク・ローリターンの保守案」を並べられた場合、「保守案」の方を選びがちなのです。特に、挙手や署名入りで採決する場合は、責任問題も発生するので、余計に保守化が進みます。
 しかし、物事というのは、ピンチのときほど大胆に動かなければならないので、現在の日本のような状態で「慎重を期して」などと言っていると、対応が後手後手に回ることになります。
 
 そして、最も問題なのが、「投票者の質が問われない」ということです。
 現在日本では、自民党にガッチリくわえ込まれた文部省の主導のもと、「資本主義は素晴らしい!」と、あの手この手で子供達に教え込んでいます。
 実際のところ、本書でさんざん指摘しているように、資本主義というシステムには様々な問題点があります。しかし、大政党である自民党の党員は、資本主義というシステムによって、多大な利益を得ている身なので、わざわざ欠点を暴露するわけがありません。
 こういう教育を受けてきた子供たちが、長じて選挙権を手に入れた場合、どういう結果になるかは明白でしょう。
 
 以上のことから、多数決というシステムは「正しいこと」を決定するためのものではないことが、お分かり戴けたと思います。
 ここを理解しないと、天動説全盛の世の中にあって、地動説を唱えたガリレイを迫害するような愚行を、何度でも繰り返すことになるのです。
 

労働者の権利
 
 権利にも色々ありますが、ここで問題にしたいのは、著作権や特許権のことです。日本の法律というのは、個人と企業を天秤にかけた場合、企業が有利になるようにできています。そのために、発想力の旺盛な労働者たちは、かなりの大損をしているのです。
 
 少し前、青色発光ダイオードの開発者・中村修二氏が、当時勤務していた会社の待遇に不満を持ち、裁判を起こしました。
 青色発光ダイオードは、彼が発明するまでは、「二十世紀中は開発不可能」とされていたのですが、この発明により、彼の所属する会社は莫大な利益を挙げました。
 しかし、開発者である中村氏は、通常の給料の他は、二万円の報酬しか受け取れず、強い不満を抱え込んだということです。
 結局、裁判でもろくな賠償を受け取れず、中村氏は渡米し、日本は優秀な頭脳をひとつ失いました。
 会社に言わせれば、「給料を貰った挙げ句に、会社の設備で開発したんだから、当然の処遇」ということなのでしょう。
 しかし、本来生産手段というものは、誰もが自前で持っているべきものです。それを、資本家という存在が奪い、貸与して上前をハネているというだけのことです。個人単位では、大きな仕事ができないというのなら、せめて国有化するべきです。
 本書で何度も指摘しているように、労働者というのは、「資本家のお陰で、働かせてもらっている」のではなくて、「資本家のために、働いてあげている」のです。
 
 他にも、こんな話があります。フリーライターの山下章氏は、かつて、前例のない斬新な本を出版されました。ところが、原稿料の交渉になったとき、「今までにない本だし、売れるもんじゃないから、絶対買い取りにした方がいいよ」と、その出版社の編集者に言われたのです。
 山下氏は、「でも、印税って憧れるんですけど」と食い下がったのですが、「そんなに入るもんじゃないから、買い取りにしなさいよ」と押しきられて、結局買い取りにしたのです。
 ところが、蓋を開ければ本はバカ売れ。最終的に一七刷まで出たそうです。買い取りで山下氏がいくらの収入を得たのかは不明ですが、印税式より、遥かに少ない儲けであったはずです。
 一見、「ただの編集者の読み間違い」という話に思えますが、やはり、ここにも資本主義の搾取理念が存在しています。
 例えば、あなたのところに「自著の権利を一〇〇万円で買い取るか、売り上げの一〇パーセントを払うかのどちらかで、本を出してほしい。残りの純利益は、あなたの自由にして構わない」という人間が現れたとします。
 価格設定一〇〇〇円、利益率五〇パーセントで、「この本なら、一〇万部は売れる!」という予感がした場合、あなたはどちらを選ぶでしょうか。
 多分、ほとんどの方が「買い取り」にすることでしょう。まず、印税式にした場合、あなたの収益は「(一〇〇〇÷二−一〇〇)×一〇万」で、四〇〇〇万円です。一方、買い取った場合は、「一〇〇〇÷二×一〇万−一〇〇万」で、四九〇〇万円になります。
 逆に、「この本は、一〇〇〇部がいいところ」と予測した場合には、印税にするでしょう。この場合、印税式なら、あなたは四〇万円の収入を得ます。しかし、逆に買い取りにすると、利益どころか、五〇万円の赤字を出す羽目になります。
 このような計算から、前述の編集者は悪意をもって、不当に山下氏の原稿を買い叩いたことが分かるわけです。例え、山下氏から騙し取った利益が、そのまま自分の懐に入らなくとも、いずれ出世という形で返ってくるのですから。
 
 実は、発明というほどではありませんが、筆者にも似たような経験があります。
 筆者は平成七年ごろに、派遣会社Tの仕事で、超大手音響メーカーSの工場にて、不良品の詰め替え作業をしたことがあります。
 その作業は、携帯型の音響機器に付属されてる電池を、現場の人間三名とT社の人間四名で、すべて取り替えるというものでした。
 作業が始まると、現場の人間は、一二工程が必要な方法で作業するように、我々T社の人間に指示しました。しかし、少し経つと筆者ははるかに手間を短縮した、七工程の方法があることを見抜き、そのことを皆に教えました。
 早速その方法は採用され、「その日だけでは、終わらないかも知れない」とされていた作業を、たったの六時間で終わらせることに成功しました。
 
 と、ここまでなら、ただの「業界いい話」なのですが、この先が問題です。何と、現場の人間が、「予定より早く終わったから、報酬を削る」などと言い出すではないですか。
 ご存じない方のために説明しますと、派遣社員というのは基本的に時給制なのです。しかし、今回はT社の方から「八時間の仕事」という話で行っているので、これはS社の明らかなルール違反です。
 結局、力関係もあり強引に押しきられましたが、今でも悔しい思い出です。恩を仇で返すとは、まさにこのことでしょう。S社にしてみれば、支出を削った挙げ句、マニュアルを改善できたのですから、丸儲けです。
 以上の話から、資本主義の世界が、実力至上主義ではなく、搾取至上主義であることがお分かり戴けると思います。
 

資本主義の一色塗り
 
 だいぶ前、ネット上を散策をしていましたら、政治的なことを語っているサイトがありました。
 いろいろ過激なことを語っていたのですが、その中の『「青少年有害社会環境対策基本法」について、「この法案に賛成する連中は、思想を一色に塗りつぶしたい共産主義者である」』という一文が目を引きました。
 まあ、臭い物に蓋式の「青少年有害社会環境対策基本法」に反対する気持ちは分からなくもありません。問題はその次、「この法案に賛成する連中は、思想を一色に塗りつぶしたい共産主義者である」という部分です。
 筆者は、後に詳しく語りますが、資本主義はもとより、共産主義にも否定的です。ですから、筆者がここで問題にしているのは、「共産主義を否定した」という部分ではありません。
 では、どこが問題かといいますと、「思想を一色に塗りつぶしたい=共産主義者」……言い換えると「思想の多様性を認めている=資本主義者」という、不勉強故の思い込みです。
 
 はっきりと言わせて頂きますが、資本主義・共産主義・封建主義・自由階級主義(これについては後述します)……ありとあらゆる政治思想(イデオロギー)は、究極的には万民の思想を統一することをその目的としています。
 これは、国家を運営しているものが法であることを考えるとよく分かります。
 例えば、徴兵制。これが施行されている国では、どんなに殺人を好まない人間でも、国家に選出されれば、殺人のための訓練を積まされるのです。
 この日本でも、どんなに資本主義を否定しようと、そのシステム内で生きることを強要されています。
 「日本には、共産主義者だっているし、言論の自由が認められているじゃないか」という声もあるでしょうが、それは理論のすり替えと言うものです。
 例えば、日本では共産主義者は共産主義者として生きることは出来ません。必要だから隣の家の物を無断拝借するという、共産主義下では当然の行為も、資本主義化では窃盗と言う罪に問われます。これを、「共産主義者が共産主義者らしく生きていける状態」とは言えないでしょう。
 このことからも、資本主義=思想の多様性を認めているなどというのが、ただの思い込みであることがお分かりいただけると思います。
 結局のところ、大なり小なり国家・集団は、思想の統一を図るものです。残念ながら、これを回避する術は、人外の秘境か何かでひっそりと暮らすぐらいしかないでしょう。
 ですから、大切なのは「いかによい政治思想を国家の基本にするか?」ということなのです。
 

犯罪と戦争はなぜ起きるか
 
 新聞を見ると、毎日、何がしかの犯罪や戦争の記事が掲載されています。特に、新聞に載るような事件というのは、「世間の耳目を集めるに足る」と判断されたものだけですから、そうでない犯罪も含めれば、実に膨大な数の犯罪事件が、日々起きていることになります。
 一体、なぜこれらの事件が起こり続けるのでしょうか。まずは、犯罪から考察してみましょう。
 
 犯罪には、主に二つの種類が存在します。金銭に起因するものと、精神に起因するものです。
 まず、金銭を動機とするタイプの犯罪は、貧富の差が原因であるということは、想像に難くないと思います。
 「じゃあ、大手食品会社の不正表示や、暴力団の悪行は何なんだ?」という質問があることでしょう。しかし、これもまた、富めば 天国、貧すれば地獄の、資本主義の理論によるものです。
 
 ちなみに、暴力団には司法の不備を衝く、隙間産業という面もあります。何かトラブルがあったとき、弁護士や警察、裁判所を通すと、年単位の時間がかかります。また、悪くすれば敗訴したり、取り合ってもらえなかったりします。
 しかし、暴力団は金さえ積めば、殺人から営業妨害、借金の取り立てなど、基本的に何でもやってくれ、しかも早くて確実です。
 彼らの存在は、決して許されません。彼らを暗躍させないためには、司法を高速化し、なおかつ誰でも手軽に頼れるような存在にしなければいけないのです。
 しかし、警察の腐敗は留まることを知らず、裁判期間が長過ぎる今の日本では、口先だけではない抜本的な構造改革でもしない限り、夢のまた夢でしょう。
 
 次は、精神に起因するものです。怨恨による殺人、ストーキング、暴走行為、いじめなど色々ありますが、これもまた、資本主義が多分に影響しています。
 意外に思う方もいるでしょうが、資本主義の世界は、金が物を言う世界です。つまり、貧者は常日頃、理不尽なストレスにさらされ続けることになります。そして、溜まりに溜まったストレスが、爆発するとどうなるか……お分かりですね?
 「貧しくとも、円満な社会」などというのは幻想です。残念ながら、衣食住足りて、人は初めて他者に優しくなれるのです。同じ人類同士なのに、金がないばかりに冷遇される世の中で、誰が無償の愛情を振り撒けましょうか。
 経済は、社会の根本です。経済システムに不備があれば、それは必ず、社会問題という形をとって表面化します。
 
 ちなみに、「犯罪」と「悪事」は、必ずイコールではありません。あくまでも、「現政府の維持にとって、マイナスになること」が、司法における犯罪なのです。
 例えば、国家が警察官や自衛隊員を採用する際、「思想に偏りがないかどうか」を調べ上げて、右や左に傾いているようなら、その人物を弾きます。
 一見、普通のことのようですが、実はここに、大きなペテンが存在します。
 なぜならば、日本において「中庸」とは、「資本主義支持者」のことであり、これは言い換えれば、「資本主義に偏った状態」なのです。
 少し視点を変えて、考えてみましょう。例えば、共産主義の国においては、共産主義者こそが中庸であり、資本主義者や封建主義者は、思想の偏った人間であるという扱いを受けます。つまり、これと同じことなのです。
 要は、「資本主義(=現政府)寄りに思想が偏っているぶんには大歓迎」というのが、国家の本音というわけです。偏りのない思想などと言うのは、幻想に過ぎません。
 犯罪の概念に関する話を、これ以上詳しく行なうと、分量がかさばり過ぎますので、今回は割愛し、いずれ別の機会に語りたいと思います。ただひとつ、「法は、弱者ではなく、究極的には強者の生活を保護するためにある」とだけ、ここでは憶えておいてください。
 
 続いて、戦争についても考察をしてみましょう。戦争にもやはり、金銭に起因するものと、精神に起因するものの二種類が存在します。
 まず、金銭型のものですが、これにはさらに、「領土拡大型」「景気促進型」の二種類が存在します。このうち、領土拡大型については、特に説明するまでもないと思いますので割愛し、話を景気促進型に絞ります。
 戦争行為というものは、非常に金食い虫です。これを言い換えると、「莫大な消費が起こる」ということになります。
 一方、自由(=野放し)経済は、絶えず消費を続けていないと死んでしまうので、戦争行為と非常に相性が良いことになります。
 ひとたび、どこかの景気低迷に悩む国が、戦争を起こしたとしましょう。果たして、どんなことになるのでしょうか。
 まず、若者を兵士として雇うことで、雇用問題が大幅に改善されます。
 次に、武器弾薬、兵糧、紙、医薬品など、様々な物質の需要が生まれ、一次産業と二次産業が潤います。
 さらに、兵士たちが繁華街あたりで給料を使えば、三次産業も潤います。
 ここまでは、戦争という、大量殺人行為の是非を別とすれば、確かにいいことずくめです。
 しかし、戦争は所詮、生産活動の対極にある破壊活動です。これは言わば、働かずに強盗を続けるようなもので、勝ち続けることによって奪い続けない限り、軍需景気はいずれ頭打ちになる日が来ます。
 このように、軍需景気というものは、景気低迷にとってカンフル剤の役割を果たしますが、それもせいぜい一時力であり、効果が切れた後は、前以上の不景気が待ち受けることになります。どちらかというと、カンフル剤というよりは、覚醒剤と言った方が的を射ているでしょう。実際、アメリカなどは肥大化しすぎた軍備が、経済のお荷物と化しています。
 ところが、日本政府は愚かにも、この「最後の手段」に訴えようとしているフシが伺えるのです。
 この原稿を書いている時点では、「有事法案」が、政策決定の焦点になっています。有事法案の狙いは、言うまでもありません。
 現在のところは、あくまでも「個人の情報を守る」というのがその大義名分ですが、この法案が一度通れば、なし崩しに関連法を制定し、言論規制へ持っていこうというのが、発案政党の狙いでしょう。
 
 「考え過ぎだ」という声もあることでしょうが、既に警察による盗聴が合法化されたこと、機動隊がサブ・マシンガンを導入したこと、被疑者を別件ごとに二十日間以上に渡って監禁できること、監視カメラが増設されていること、日の丸・君が代が国旗・国歌に正式に決まったこと、非核三原則見直し発言が官房長官の口から出たこと、教科書問題と有事法案が俎上に上っていることを考え合わせると、決して楽観視はできません。
 なぜならば、兵隊の士気に関わるため、戦争には「愛する祖国を守るため」や、「アジアの民を解放する」などの大義名分が必要であり、さらにそれを正当化するためには、教育機関とマスコミの操作、そして反体制派の弾圧が欠かせないからです。
 ともかく、日本はこのままでは、不況のプレッシャーでトチ狂った国家首脳部の舵取りの下、確実に軍国化を目指すと考えて、差し支えありません。
 我々は何としてもこの愚行を食い止め、もう少しましな方法で、経済を立て直すべきです。
 

破産者・日本
 
 平成一四年・六月末、米国ムーディーズ社による、日本の国債の格付けが二ランク低下し、政治家たちが憤慨していました。
 しかし、これは当然の処置というものでしょう。筆者が審査員だったら、もっと評価を下げているかもしれません。
 財務省の発表によれば、日本は平成一五年・六月の時点で、国債・借入金併せて、約六五〇兆円もの負債を抱えています。これは、年度予算八〇兆円の約八倍に匹敵します。
 
 ここで、皆さんに質問です。あなたは年収の八倍の負債を抱えた人間……例えば、三二〇〇万円の借金のある、担保も返済計画もない年収四〇〇万円の人に、金を貸しますか?
 多分、貸さないと思います。
 日本の破産法では、「借金を三年以内に返せるかどうか」が、成立の可否の目安になっています。つまり、月々の返済額が、月収の二割以下(通常、返済に支障をきたさないとされる額)ならば、破産が認められるわけです。
 これは、言い換えると、「月々の返済額が月収の二割以上なら、返済は不可能」と国が考えているということです(実際には、月収の一割でも、返済するのは困難ですが)。
さらに言えば、これ以外に地方債というものまであるのです。
 
 しかし、日本の負債額は、年度予算枠の八倍。しかも、低レートとは言え、利子も付けなければいけません。まさに、多重債務者そのものです。一体、どうやって返す気なのでしょうか。
 しかし、ムーディーズがランクを下げた要因は、これだけではないと考えられます。
 世界史的に見ると、一〇年以上も不況が続き、さらに、これだけ政治家や公務員の不祥事が相継いだのであれば、普通は革命・暴動が起こります。
 日本より、はるかにテロと戦争に対して敏感なアメリカ人から見れば、「いつ、日本の国債が紙屑に変わってもおかしくない」と考えるのは当然です。
 
 ところが、現在のところ日本には、革命の「か」の字も見当りません。これは、歴史上類を見ない、実に奇妙なことです。
 なぜ、こんな状態になっているのかについては、「武器の所持禁止の徹底」、「テレビと雑誌の普及」、「学生運動後の負け癖」の三つが原因であると、筆者は考えます。
 
 まず、武器の所持禁止の徹底ですが、これは太閤・秀吉の時代に端を発します。
 秀吉は、「大仏を造るための材料」という名目で、農民たちから、刀や槍を取り上げました。これが、俗に言う「刀
狩り」です。
 もちろん、大仏を造るなどという大義名分はただの建前であり、真の目的は、労働者から武器を取り上げて、革命を防ぐことにあります。これは見事に功を奏し、それ以降現在に至るまで、日本の労働階級は、二度と武器を持つことができなくなっています。
 まさに、宗教と権力の相性の良さを、物語る出来ごとだといえるでしょう。
 
 続いて、テレビと雑誌の普及です。意外な気もするでしょうが、これも日本から革命気質が消え失せた要因のひとつです。
 テレビは基本的に、電気代だけで、様々な娯楽を得ることができます。雑誌もまた、大型書店やコンビニで、立ち読み……つまり、ただで読むことができます。
 これは、「欲求のはけ口を、貧者も不完全な形ながら、手軽に手にすることができる」ということです。革命の動機は、いつの世も「不満」ですから、これで動機が薄らぐというわけです。
 さらに、「もし、捕まって刑務所に入ったら、自分の好きな、あの番組や連載が見れなくなるなあ」などと考えれば、やはり心理的にブレーキがかかります。
 しかも、革命万歳という内容の番組や連載など、大手のマスコミがするわけがありませんから(その逆なら、よくやりますが)、ますます革命は遠くなるわけです。
 
 そして最後が、学生運動後の負け癖です。日本も四〇年ほど前には、大学生による暴動が、盛んに起こっていました。
 結局、ほどなく鎮静化しましたが、闘争に参加していた学生たちは、就職の際に冷遇されたりと、かなり悲惨な目に会っています。なにせ、企業にしてみれば、気骨のある者より、従順な者の方が有り難いわけですから。
 かくして、当時の学生たちである「団塊の世代」は徹底的に打ちのめされ、その心に、「負け癖」という大きなトラウマを抱えました。彼らが後に「モーレツ社員」と化していった背景には、この負け癖をごまかそうという、心の働きがあります。
 そして、彼らは過去をふり返って、(無意識のうちに)己の挫折を慰めるために、子供に「人間、平凡が一番だ」と教え込むわけです。平凡が悪いとはいいませんが、やはり動機が不純でしょう。
 なお、一つだけつけ加えておきたいのが、やはり民意を得ずして、テロ活動に走った彼らのやり方は、非常によくなかったということです。これでは、「ただ、暴れたいから暴れていただけ」などと言われても、仕方のないところです。
 ともかく、これらの要因が重なり、日本は革命という言葉から最もかけ離れた国になりました。しかし、人間には我慢の限界というものがあります。日本の国債が紙屑に変わる日も、そう遠くないかも知れません。
 

売票行為の愚かさ
 
 以前、テレビのニュース番組で、選挙の売票行為が問題として取り上げられていました。
 売票行為をした者が言うには、「どうせ、自分の票なんて大した影響ないんだから、五〇〇〇円も出す奴に売ってやるんだ」とのことですが、これがどれだけ愚かなことか、分かっていないようです。
 もちろん、筆者は投票行為を神聖視するほど青くないので、「悪魔に魂を売った」などという、何の価値もない話をするつもりはありません。具体的な話……つまり金の話をしないと、こういう人間は己の過ちに気付かないものですから。
 そういうわけで、ここでは、売票行為がなぜ愚行なのかを、説明したいと思います。
 
 まず、一つ言っておきたいのが、「政治家は本来割に合わない」ということです。
 勉強は必要。命は狙われる。人気商売なので、絶えず人目を気にしなければいけない。スケジュールは分刻み。しかも、極めつけが「選挙に落ちればただの人」。
 とても、年収一〇〇〇万あたりでは、やりたくない仕事です。
 
 普通にやっていれば。
 
 なぜ、こんな辛い仕事に就きたい人が跡を絶たないのかといえば、それはもちろん、不正な手段で大いに儲けることができるからです。
 何しろ、汚職ひとつで、億単位の金……つまり、一人の労働者が、長い長い労働生活の中で、細切れに得られる金の総額が、ポンと手に入るのです。資本主義の世界に生きる人間で、この魅惑に打ち勝てる者が、どれほどいるでしょうか。
 
 さて、こういう職業ですから、なりたい人間は山ほどもいます。まさに、過当競争もいいところの世界です。そこで、すでに政治に携わっている者が、少しでもライバルを減らすために思いついたのが、「供託金」というシステムです。
 これは、立候補の際に、数十〜数百万円もの金を国に支払って、一定数以上の票を得れば、返してもらえるというものです。
 この供託金というシステムがあるため、貧者が立候補を試みるにあたり、以下のような障害が発生します。
 まず一つが、貧者が一度にそれだけの資金を用意するのは、難しいということ。これだけの金を、借金もせずに一度に用意できる者は、貧者とは言いません。よしんば借金をしようとしても、担保も取らずに、こんな危なっかしい話に乗る金貸しはいないでしょう。
 次に、一定の得票がなければ、供託金が没収になるということ。貧者が没収を嫌って、手をこまねいていれば、候補者数は減り、票もばらけにくくなる。ひいては、資本家の立候補者の供託金が、没収される危険も減る。実に、いやらしいほど見事なシステムです。
 供託金の存在によって、かくも選挙とはハイリスク・ハイリターンな代物となってしまいました。
 
 普通にやっていれば。
 
 ここで出番となるのが、買票です。さすがに直接金を配って歩くのは危険なので、一度選挙区の顔役に配り、さらにそこから末端の有権者に金を配ります。浮動票の多い都市部でも、ある程度の力を持つ方法ですが、ムラ社会である地方では、実に圧倒的な力を持ちます。
 かくして、候補者は「実弾攻撃」と称し、選挙区に金をばら蒔くのです。
 
 さて、金を受け取った有権者ですが、「五〇〇〇円札と引き替えに一票ぐらい売ったって、どうってことないだろう」と考えることでしょう。しかし、これは物事を大局的に見ることのできない人間の、浅はかさというものです。
 選挙に当選するためには、何十万、何百万という得票が必要になります。例えば、一〇万人の有権者のいる地域で、二人の候補者が政治家の椅子を争ったとします。この場合、確実に勝つためには、五万一票を得ればいいことになります。
 これを、一票あたり五〇〇〇円で買うと、およそ二億五〇〇〇万円が必要になります。普通に考えれば、まさに大損です。しかし、先程説明したように、政治家は汚職でいくらでも回収することができるのです(無論、落選すれば破滅が待つのみですが)。
 かくして、めでたく政治家となった、元・立候補者は、汚職によって、投資の回収にとりかかります。
 例えば、工事の発注。ゼネコンは国家から工事を受注すると、予算から一〇パーセント(ここを、三〇パーセントとしている資料もあります)を天引きした上で、下請けに丸投げします。つまり、予算枠が一〇億円の工事があれば、一億円の不労所得を得ることになります。
 そして、そのゼネコンのトップがそのうち半分程度を、会社の維持に使ったとしても、五〇〇〇万円がゼネコントップの手元に残ることになります。
 うち、四〇〇〇万円をリベートとして政治家に支払っても、労せずして一〇〇〇万円もの金を、ゼネコントップは手にするわけです。一方政治家も、労せずして四〇〇〇万円が手に入りました。これを七回も行なえば、二億五〇〇〇万円の投資の回収を行なった上に、お釣りが三〇〇〇万円も出ます。
 もちろん、これらの金は、要するに「税金の無駄遣い」です。この場合、一〇億円の無駄金を、国庫から垂れ流したことに他なりません。
 当然のことながら、国庫とて無限ではありませんから、損失のツケは、「増税」や「福祉の削減」という形で、国民……それも、特にマジョリティにして立場の弱い存在である、サラリーマンや労務者たちが持たされます。
 例えば、月に二〇万円の金を生活に使う労働者にとっては、消費税が一パーセント上がると、月に二〇〇〇円も、余分な支出が発生することになります。
 もし、彼らが五〇〇〇円で票を売っていたら、たったの三か月で、損得が逆転するのです。そもそも、その五〇〇〇円とても、恐らく自己投資になどには使わず、せいぜい酒・煙草・博打・風俗あたりに消えるのがオチでしょう。
 
 富める者は政治を動かし、己を太らせるための法を作る。一方貧者は、立候補することも許されず、貧者を救うための法の成立は、ますます遠ざかる。さらに、貧しさ故に知性を奪われて、売票行為で自らの首を絞めてゆく……。
 「貧すれば鈍する」とは、まさにこのことでしょう。売票行為とは、かくも愚かな行為なのです。
 

返さない奴が悪い?
 
 少し前に、商工ローンの悪質な取り立てが話題になったことが有りました。「目玉でも臓器でも何でも売って返せ」という脅迫的な言葉の数々に、テレビの前で戦慄を覚えた方も、少なくはないでしょう。
 かく言う筆者も、不快な思いでこのニュースを見ていたひとりですが、この事件を報道していた番組中、司会者が耳を疑いたくなるような発言を行ない、むしろそちらに対して戦慄を覚えました。
 
 曰く、「借りたお金を返さないのも悪い」
 
 いや、驚きました。例えばこれが、わざと借金を踏み倒しているとか言うのなら、これもありでしょう。しかし、件の債務者は「返したくても返せない」タイプの債務者です。 こう言った場合、問題にすべきは「返せない人間に貸した」商工ローン自身の責任であり、さらに言えば、利子という不労所得で儲けようという精神です。
 
 では、なぜこの司会者は上記のような寒い発言を行なったのか。
 可能性は二つあります。ひとつは、「ただの愚か者」。もうひとつは、「営業的理由で言わされた」。
 前者は、司会者のレベルの低さもさることながら、これをカットしない編集の判断こそが、最も恐ろしいと言えます。
 後者は、頑としてはねつけなかった司会者の意志の弱さが問われるところですが、とって付けたようにこんなことを言わせる発想がまた恐ろしい。なにせ、大手マスメディアが人道主義より広告収入を選んだということですから。
 昨今は、サラ金業界は我が世の春を謳歌しています。ゴールデンタイムに、サラ金のCMが嫌というほど流れていることからも分かるように、今やテレビ局にとって、サラ金業者は大事な金づる。多少の悪行は目をつむろうというものです。
 大手マスコミが大資本によって運営されている以上、最終的には資本主義システムに味方をします。ですから、国民は自力で資本主義の狡猾なシステムに対する耐性を身につけなければいけません。
 
 まず、膨大な借金があるならば、潔く「破産」すべきです。三年以内に完済が不可能と認められれば、地獄のような取り立てから、晴れて脱出することができます。破産を恥と思う人もいるでしょうが、「借金を抱えた時点で、すでに十分恥ずかしい」という自覚が必要です。
 
 また、借金をしないと生活できないようなレベルなら、借金などせずに、素直に生活保護を受けましょう。「カラーテレビやクーラー禁止」とか「生活を監視される」というのは迷信なので、安心して下さい。
 国家が、こういう迷信を払拭するための広報を行なわないのは、生活保護が国家にとって、ただの支出に過ぎないからです。その一方で、国債のイメージアップCMはバンバン流しているのですから、何とも救いがありません。
 
 身内が借金を残して死んだ場合は、死亡日(正確には、死亡を知った日)から三か月以内に「遺産相続の放棄」ないし「限定承認」の手続きを、家庭裁判所で取って下さい。限定承認は、かなり条件や手続きがややこしいのですが、相続放棄は三〜四時間もあれば、すべての手続きが完了します。
 これをやっておかないと、身に覚えのない債務を、あなたが背負うことになるので、注意して下さい。
 
 そして、保証人の類には、絶対にならないことです。しかし、悪法のによって連帯保証人がいないと家一軒を借りるのも困難な有様なので、この腐った法律を是正する努力を同時に行うことが大事です。
 資本主義政党に投票するということは、同時に保証人制度を肯定するということです。そういう方は、責任を取る意味で、むしろ積極的に保証人になって破滅してはいかがでしょうか。それが嫌なら、資本主義を否定するべきでしょう。
 
 六法全書を購入して、法律を勉強することも大事です。法律を扱ったテレビ番組や漫画は、法律を分かり易く解説しているので、これも良い手段です。
 日本の教育では、大学にならないと、法律についてほとんど教えません。これは、極めて大雑把なルールしか教えられずに、スポーツの試合をするようなものです。
 これで、「法は絶対」とか言いながらビシビシと反則を取るのが、日本政府のやり方なのです。知らなかったでは通らないので、辛いことですが、自衛のためにも民法ぐらいは積極的に学びましょう。
 
 そして、これが一番大事なのですが、先ほども述べたように、選挙で自民党を筆頭とした資本主義政党以外の党に投票することです。
 本当なら、本書で後述している「自由階級主義」を掲げている政党に入れるのがベストなのですが、残念ながら現時点ではそのような政党はないので、共産党に票を投じるのがよいでしょう。
 
 共産党と聞いて眉をひそめる方も多いでしょうが、資本主義に対するアンチテーゼとしては、悪くない選択です。何も天下を取らせる必要はなくて、資本主義政党を牽制できれば良いのですから。共産主義が急激な追い上げを見せれば、資本主義政党も、ちゃんと弱者のご機嫌を取ろうというものです。もし、資本主義と共産主義の力関係が逆転したら、今度はその逆をやればよい。
 自由階級主義が根付くまでの時間稼ぎとしては、実に手ごろな手段であると言えるでしょう。
 
 政治家も役人もマスコミも、あなたのことを守ってはくれません。弁護士などの法律家も、金を出さないと動いてくれません。残念ながら、これが資本主義であり、日本の現状なのです。
 

学級崩壊はかくして起こる
 
 教育の現場で、学級崩壊が叫ばれて久しいものがあります。
 とかく子供の態度が悪いという話になりがちですが、原因は果たしてそれだけなのでしょうか。検証してみましょう。
 
 まず、結論から先に言えば、学級崩壊の原因は、生徒たちよりも、教育内容と教師の質の低さに、大きな比重があります。はっきり言って、授業がつまらないから、生徒が無視しているだけのことなのです。大学の名物教授の講義などを見ると分かるように、授業が面白ければ、自然とかぶりつき状態になります。
 「だって、勉強というのはつまらないものだろう」という疑問を投げかけるのは、学問の面白さを、残念ながらご存じない方です。以下に、各ジャンルの面白さの要点を挙げてみましょう。

・歴史(考古)学……過去の人々の生活に思いを馳せるロマンチックな楽しさと、過去の出来ごとから、未来の出来ごとを推測するリアリズムの楽しさの同居。
・物理学など科学全般……森羅万象の神秘を解き明かす楽しさ。
・数学……唯一無二の解答を、肩書きに関係なく信用させられる、完全実力主義の楽しさ。
 
 他にも色々とありますが、取り敢えずはこんなところでしょうか。このように、各種の学問には、「それを極める楽しさ」というものが存在するわけです。
 ところが、学校は学問というものの魅力を、最もつまらなく伝える機関となり果てています。
 誰かに無理矢理教えこまれるのと、自発的に興味を持って、誰かにサポートしてもらう場合では、真の学力が身につくのは、当然ながら後者の方です。
 しかし、本来サポート役でなければならない学校が主導権を握り、学問嫌いを量産しているのは、いかなることでしょうか。
 
 それは、学校という機関が、社会の歯車をつくるための場所だからです。その最たるものが、何かと問題になる「校則」でしょう。
 戦後以降ずっと、教育機関を統括する文部省は、自民党という資本主義政党が牛耳っています。彼らのような支配者にとっては、文句ひとつ言わず、もくもくと働く人間が有り難い。だから、国民から真の知性を奪うという仕組みです。
 何しろ、学校の授業には、「上の決定に疑問を抱かせる」ものなど存在しません。ある大学教授は、「最近の生徒は、ただ自分の授業を聞くだけで、全然質問をしてこない」と嘆いていましたが、このような教育の洗礼を受けてきたのでは、当然の傾向でしょう。
 
 こういう環境では、後に天才と呼ばれるような、高い潜在能力を秘めた人間は、「変わり者」「生意気」などと、冷遇されます。何しろ、天才は、社会の歯車と対極にある存在なのですから。
 このため、歴史上天才と呼ばれた人間は、「学校教育が子供をダメにする」と看破した賢明な親によって、独自の教育を受けた者が少なくありません。
 
 何しろ、例え数学能力が非常に高い子供がいたとしても、漢字の読み書きや音楽などの(その子にとっては)不要の授業で、最低でも九年、無為に過ごさなければいけません。しかも、「道徳」や「社会」のように、支配者の理論を刷り込むのに適切な授業も盛り込まれています。
 支配者好みの凡人は量産されますが、これでは、天才は生まれません。逆に、学問の楽しさを奪われ、社会に対して不満を抱えた、LHSになっていきます。
 
 よく、ショッキングな内容の少年犯罪が起きると、マスコミは家庭環境や交友関係、趣味などを興味本位で暴露し、世間受けのする要素に問題を一元化(漫画やゲームなどは、格好の標的にされがちです)して喜んでいますが、「自民党支配下にある、文部省の教育受けている」という、最も重要な共通項は、わざとなのか愚かなだけなのか、無視しているようです。
 
 さらに、教師の程度の低さも問題です。以前、在日外国人と日本人が議論を闘わせるという旨のテレビ番組で、日本の学級崩壊がテーマになりました。
 テーマ上、日本人代表として教師たちが参加したのですが、ここで社会科教師が、とんでもない発言をしたのです。
 その教師曰く、「日本に宗教がないのが問題だ」とのこと。実際には、日本人は諸外国に負けず劣らず迷信深いのですが、ここまでは、まあいいでしょう。問題はその次です。
 彼がそれを強調する理由として、「日本の子供は宗教心がない=絶対的な存在に従うことを知らない」と言うではありませんか。
 これだけだと、今一つピンと来ないかもしれませんが、要するに、彼は「教師は神に等しい」と言っているのです。ここまで思い上がってくれると、もはや腹立たしいのを通り越して、いっそ愉快と言えましょう。
 そして、この発言はまた、宗教の本質をも示してもいます。つまり、彼は無意識のうちに、「宗教とは、人民を支配者の下僕にするために存在する」と、暴露してしまっているのです。
 
 こういうのは極端な例だと思う向きもあるでしょう。しかし、実際のところ、筆者の人生を振り返ってみても、こういう、ズレたLHS気味の教師ばかりだった気がします。
 何しろ今の教師たちは、上記の支配者による支配者のための、歯車量産教育を受けて育っています。しかも、さらにそういう人間が教鞭を執っているのですから、まさに悪循環以外の何物でもありません。
 現在、学歴を就職のためのパスポートとしてしか、捉えられない人間が多くなっています。そんな大人たちの背中を見て育った子供たちが、学問を冒涜したとしても、無理もない話なのではないでしょうか。
 

本来無駄なモノ
 
 ひとつ、なぞなぞなど。
 「それ自体は無駄遣い。だけど、それをしないともっと無駄遣いになるものは何?」
 皆さん、正解が分かったでしょうか。正解は「広告」です。
 
 現在、我々は日常で様々な広告に触れます。新聞のチラシ、ダイレクトメール、テレビCM、通販番組、電車の中吊り、街頭で配っているティッシュ、看板、ウェブのバナー、タウンページ……などなど。最近では、割り箸の袋にまで広告が載るようになったようで、まさに商魂逞しい限りです。
 
 しかし、この広告というもの、冒頭でも述べた通りの壮大な無駄遣いです。なぜならば、広告そのものは、何らその製品やサービスの質の向上に貢献しないからです。いや、むしろ、広告費という形で開発費などを圧迫するぶん、質の低下を招いているといっても過言ではない。また、ダイレクトメールなどは森林資源・石油資源の浪費であり、環境面からも大きな問題を含んでいます。
 とは言うものの、筆者は広告行為そのものを否定しているわけではありません。

 資本主義(この場合、広義の商業主義という意味で捉えてください)という、蹴落とし合いを推奨している世界では、敵よりも目立って、相手を押しのけなければいけません。
 逆に、どんなに素晴らしい商品やサービスを用意しても、世間に知られなければ、それこそが無駄遣いに終わってしまうのです。
 つまり、世が資本主義である限り、広告は必要悪なのです。
 これは言い換えると、広告という無駄遣いを止めるためには、資本主義を人々が棄てれば良いということです。
 
 では、資本主義でなくなれば広告は完全不要になるかというと、これがまたそうもいかない。
 資本主義でなくなり、蹴落とし合いから解放されたとしても、「どの商品やサービスが、いつ・どこで得られるか」という情報は、依然として必要だからです。
 
 そこで筆者が提案したいのが、検索サイトの一元化。
 例えば、現在検索サイトは山ほどありますが、大抵の人が日ごろ使っているのは、「Yahoo!」と「Google」の二つだけ。これで目当てのサイトが出てこなかったときに、やっと他の検索サイトにお呼びがかかる……というのが、ネットの現状です。
 言い換えると、この二つに登録さえされれば、他の検索サイトにサイトの管理人が登録する必要はほとんど無い、ということです。
 しかし、自動登録型のGoogleはともかく、Yahoo!は掲載率五パーセントの超難関として知られ、これがゆえに、サイトの管理人は他の小さい検索サイトに、下手な鉄砲なんとやらとばかりに、のべつまくなし登録をしなければならないわけです。
 こうした登録乱発の弊害として、サイトの閉鎖や移転時に登録者がどこに登録したか分からなくなって、残骸を残してしまうと言う事態が多発しています。電子情報とて有限ですし、閉鎖や移転を知らずに訪ねていった利用者の混乱も招きますから、大変問題なことです。
 
 前置きが長くなりましたが、筆者がここで言いたいのは、現状の「Yahoo!」「Google」に匹敵する検索サイトを、政府が設けるべきではないかということです。
 個人や企業のサイトが星の数ほどあるのは結構なことですが、検索サイトが星の数ほどあるのは困ります。検索サイトに限っては、「優れた唯一つ」があればいい。いや、むしろそうでないと利用者が困る。電話帳も、NTTしか出していないから便利なのであり、何十種もあって、それぞれてんでばらばらに電話番号が掲載されていたり、あるいはされていなかったら不便なのと同じことです。
 
 なお、このとき気をつけなければいけないのは、Yahoo!のように狭き門にせず、玉石混合どんなサイトでも、掲載しなければいけないということです。医療だろうが、アダルトだろうが、オタク向けだろうが、吹けば飛ぶような泡沫個人サイトだろうが、全てです。そうでなければ、一元化する意味が無い(無論、違法なものは論外ですが)。
 
 また、もう一つ気をつけるべきは、利用者の望みに合ったサイトが見つけやすいようなシステムを構築することです。
 たとえば、筆者もいち時期色々な医療検索サイトで、育て直しについて調べ回ったことがあるのですが、ひとつとして満足行く検索サイトを見つけることは出来ませんでした。
 と、いいますのも、これらの検索サイトは基本的に、「科目別検索」は出来ても、「療法別検索」が出来ないからです。さらに言えば、そのほとんどに治療者に対する利用者の評価を記入するような機能もない。
 これでは、大変に中途半端としか言いようがありません。上記などの問題点を改善した、究極の検索サイトの登場が待たれるところです。
 
 なお、ここまで読んで、「サイトを持っていない事業主はどうすればいいんだ?」とか「パソコンや携帯電話でネットのできない利用者はどうする気だ?」などの疑問が浮かぶでしょうが、順に説明していきます。
 
 まず、サイトを持っていない事業主の件ですが、これは簡単。なぜならば、こういった事業主というのは、パソコンが使えないか、使えてもサイトを運営する意志が無いだけです。
 これは言い換えると、「誰かがサイト運営を肩代わりすれば良い」ということになります。一見、難しそうですが、質問に答えていけば、簡単なサイトを自動生成してくれる医療検索サイトというのが実在します。これを応用すれば問題解決です。
 
 次に、ネットができない利用者の件。これも簡単です。NTTには、オペレータが利用者の求める施設を案内してくれる「一〇四」という有償サービスがありますが、これを応用すれば良いわけです。
 広告費という無駄銭が浮くだけで、国内経済はとても豊かになります。
 社会制度を一刻も早く改め、こんな壮大な無駄遣いは止めなければいけません。
 

数字の読み方
 
 新聞やテレビなどのマスコミでは、日頃、様々な数字が躍っています。そして人々は、その数字とともに語られる主張を、権威主義に基づいて、信じるわけです。
 しかし、マスコミ上で展開される数字の数々は、そこまで信用の置けるものなのでしょうか。ここでは、このことについて、検証してみたいと思います。
 
 まず、明言しておきますが、マスコミに登場する数字そのものは概ね信用して構いません。ここで問題にしているのは、数字それ自体ではなく、「数字の扱い方」なのです。
 例えば、「ビンに半分の水が入っている」というデータがあったとしましょう。あなたがこの事実を誰かに伝える場合、「半分も入っている」と考えるか、「半分しか入っていない」と考えるかで、伝え方が異なるはずです。
 
 このように、数字というものは、それを見た人間の心理状態次第で、いくらでも意味が変わります。さらに、これを利用すれば、数字に送り手の意志を付け加えることにより、受け手の感想を操作することもできます。
 具体例を見てみましょう。「ある案件について、賛成が三〇パーセント、反対が四〇パーセント、どちらでもないが三〇パーセント」というデータがあなたの手元にあったとします。
 もしも、あなたがマスコミに意見を発表する権限があり、このデータを基に「賛成」の世論を広めたい場合、どう書くべきでしょうか。
 
 正解は、「この案件に反対したものは、全体の過半数に満たなかった」です。こう書けば、確かにデータ通りでありつつも、極めて誘導的な文章になります。
 これは、「どちらでもない」層を、自分の意図に添って扱う、数字のトリックです。
 これ以外の方法でも、受け手の感想を操作する手段は色々あります。例えば、こんな見出しはどうでしょうか。
 
 「××市の犯罪発生件数、昨年の倍に!」
 これを読んだ方は、さぞかし一大事と考えるでしょう。しかし、極端な話、昨年の犯罪発生件数が一件だけだったら、今年の犯罪発生件数は、たったの二件です。
 このように、「何倍」や「何々分の一」という表記も、受け手の感情操作に有効です。
 また、こういう手も有効です。
 
 「実に一三〇〇万人もの人間が、この政策に賛成している」
 こう書くと、「ずいぶん人気のある政策だな」と思われることでしょう。では、次のように書くとどうでしょうか。
 「この政策に賛成している人間は、日本国民の、たった一〇パーセントに過ぎない」
 日本国民はおよそ一億三〇〇〇万人ですから、扱っている数字自体は先程と変わりません。しかし、受ける印象は全く違ったのではないかと思います。
 これは、「割合」と「数量」を使い分けるトリックです。「一分の一」も「一億分の一億」も、同じ「一〇〇パーセント」というのが、ここでのポイントになります。
 では、さらに、こういうトリックはどうでしょう。
 
 「××、一〇〇〇ミリグラム配合!」
 栄養ドリンクの類に、よく見られる表記です。これを見た人間は、「結構入ってるな」と思うことでしょう。しかし、これを「一グラム配合!」に変えると、同じ分量であるにも関わらず、「何だ、大したことないな」という評価に変わるはずです。
 これは、単位よりも数字が先に目に入ってくるために、起こる現象です。同じ理由で、「九八〇円」も「一〇〇〇円弱」ではなく、つい「九〇〇円台」という捉え方をしてしまいがちです。
 このように、一番最初に刷り込みたい数字を持ってくるというのもまた、情報操作の有効手段のひとつです。
 こういう手段は、まだまだあります。これなど、どうでしょうか。
 
 「被験者の少年たちに、コンピュータ・ゲームをやらせた結果、六〇パーセント以上の者に、凶暴性の上昇が見られた」
 これは、どこかの学者が実際に行なった実験の、結果発表です。一見、何の問題もないようですが、やはりここにも作為が存在します。
 この例の作為性を示す部分は、「問題をコンピュータ・ゲームに一元化している」という点です。

 例えば、凶暴性を示した人間だけが、「普段から、ジャンクフードをよく食べている」という人間だったなら、コンピュータ・ゲームの存在など霞んでしまい、「ジャンクフードの常食が、凶暴化の原因に!」という結論になってしまうのです。
 しかし、この実験では、コンピュータ・ゲーム以外のものを試してみたという話は、全くないようです。
 つまり、この学者氏は、コンピュータ・ゲームに対する偏見から、故意に調査対象を狭めた疑いがあるわけです。確かに、森羅万象について、いちいち実験することは無理ですが、もう少し視野を広げる必要があるのではないでしょうか。
 
 以上の例から、数字を変えることなく、意味を変えることが可能であることが、お分かり戴けたと思います。
 昨今、通信手段の発達によって、我々の回りには、様々な数字が溢れ返っています。しかし、数字は道具であり、使う人間の意志ひとつで、いくらでも意味が変化します。
 そして、これらの加工した数字を発表しているのは、資本家を筆頭とした上層階級の人間たちです。皆さんも、数字のトリックに惑わされず、真実を見抜く目を養って下さい。
 

博打に溺れることの愚かさ
 
 街を歩くと、パチンコ屋や競馬場など、様々な賭博場に、人が群がっているのを見かけます。しかし、彼らはわざわざ損をするために、入り浸っているということが、分かっているのでしょうか。
 そこで、ここでは、賭博に溺れることがいかに愚かなことであるかを、検証してみましょう。

 まず、賭博というものは、システム上、必ず胴元が儲かるようにできています。
 例えば競馬は、JRAが総賭け金から二五パーセントを搾取した上で、的中者に再分配するという方式を採っています。これはつまり、何人当たりが出ようと、JRAは痛くも痒くもないということです。
 
 一方パチスロやパチンコは、確率を操作することによって、利益を出しています。
 例えば、すべての台が「一〇〇円を入れれば、三〇パーセントの確率で、二〇〇円を返す」という設定のパチスロ屋を、考えてみましょう。
 一〇回やって、三回は二〇〇円ずつ勝ちます。しかし、全体的に見ると、「一〇〇〇−二〇〇×三」で、実に四〇〇円の損失です。これでは、儲かるわけがありません。
 
 中には、プロなどと呼ばれる人もいますが、その領域に達するには、絶え間ない研鑽と情報を交換し合う仲間、なにより極めるまで潰れないための資金が必要となります。そして、これだけの努力と才能をつぎ込んでも、賭博で家を建てたという話は聞きません(少なくなくとも国内では)。
 要するに、生活の殆どを博打の研究に捧げて、やっとトントンという世界なのです。サラリーマンや主婦が、片手間にやって儲けようというのは、あまりにムシのいい話でしょう。
 
 賭博にはもう一つ、賭け麻雀や賭け将棋のように、仲間うち、あるいは見知らぬ相手と行なう類のものがあります。
 前者の場合、確かに胴元は存在しないわけですが、誰かが大勝または、大敗しようものなら、怨恨の元となること確実ですので、やはり止めておいた方が賢明でしょう。
 後者の場合は、プロに絞り取られる危険性が大です。特に、暴力団相手に大勝しようものなら、あとで強奪されるのがオチです。

 以上の検証から、博打が割に合わないことがお分かり戴けたと思います。
 さらに、あなたが博打が原因で莫大な借金を背負っても、国家は免責を認めてくれません。それが、例え宝くじや競馬のような合法のものであってもです。
 はなはだ理不尽な話ではありますが、それが日本の資本家たちの創りあげた法律なのです。
 

募集要項のトリック
 
 現在の不況下でも、就職情報誌や新聞の折り込みには、たくさんの募集広告が載っています。これを真に受けて、分かってない人間が「贅沢を言わなければ、仕事はいくらでもある」などと、とっぽいことを言っているわけですが、もちろんこんなのはただの迷信です。
 
 募集がしょっちゅう行なわれている場合、理由が二つ考えられます。
 まずひとつが、その会社が急激に伸びており、人手が不足している場合。しかし、この不況下では、ちょっと考えられないパターンです。いまどきそんな企業があれば、間違いなくマスコミが特集を組んで話題のタネにします。
 続いて、労働環境が劣悪な場合。人間には我慢の限界というものがあるため、いくら喰いぶちを稼ぐためと言えど、あまりに非人道的な扱いを受ければ、士気が下がり次々と人が辞めていきます。実際のところ、昨今よく人員を募集しているのは、このタイプのダメ企業です。
 
 このことから分かるように、募集広告が多いからといって、仕事が山ほどあるなどと考えるのは早計です。特に、日本は学歴差別、年齢差別、性差別が蔓延しており、採用の決定権は、労働者から搾り取ることしか考えてない資本家が握っていますから、実際にはとても狭き門なのです。
 以下に、「危ない募集広告」の例を示しておきます。
 
「誰にでもできる、簡単な作業です」……軽作業と称する仕事の広告に踊る謳い文句です。実際の作業内容は、重い荷物を、次から次へと大急ぎで運ぶというものです。本音としては、「どんなに学歴のない人間でもできる、頭を使わない作業です」と言いたいのでしょう。これほど人を馬鹿にした話も、ちょっとありません。
 
「社会の裏を知ることのできる、とても知的な仕事です」……テープないしMD内に録音されたインタビュー内容を、一字一句逃さず文章化する作業(通称「テープ起こし」)の在宅ワークの募集広告にあった謳い文句です。
 実際には、テープ起こしは、編集者が泣いて嫌がる仕事の一つで、単純作業の重労働以外の何ものでもありません。もし、テープ起こしが本当に「いい仕事」なら、わざわざ金を出して、外注にする必要などないというものです。
 社会の裏側云々も、「掲載時にカットされる部分を知ることができる」と言いたいのでしょうが、掲載時にカットされる部分というのは、「ツマラナイ」からカットされているわけで、本当に社会の裏側に触れるような機密性の高い代物を、どこの馬の骨とも知れない外部の人間に扱わせる訳がありません。
 
「月収五〇万以上可」……歩合給の営業職の募集によく見られる謳い文句です。実際には、月収の上に「理論上は」という言葉が隠されており、要は机上の空論なわけです。
 実はこの表現、法規制によって表示金額が抑えられています。つまり、放っておけば、それだけデタラメな金額が書かれがちな部分である、ということです。
 もし、月収五〇万というのが現実的な数字なら、花形職業と呼ばれる、人気の職種になっていようというものです。
 
 このように、嘘っぱちのトンデモ広告というのは枚挙に暇みません。広告は、情報を正確に伝えるものではなく、イメージを売るものなのだと憶えておいて損はないでしょう。
 

LHS的説教の真実
 
 LHSというのは、とかく説教と指図が好きな人種で、特に「何でも自分一人でやれ」という、自力救済の理論を好むようです。
 一見、もっともらしい言い分に聞こえますが、これは支配者の理屈であり、それに洗脳(と、あえて書きましょう)された、被支配者の理屈でもあります。
 支配者にとって最も恐ろしいことは、被支配者たちが一致団結して、反逆してくることです。ですから、古今東西、支配者たちは「いかに搾り取るか」「いかに真実をごまかすか」に並んで、「いかに分断するか」ということに心血を注いできました。この、自力救済の理屈も、そうして創られたものです。
 
 「秩序」の名のもとに差別構造を徹底し、「自由競争」と煽って、嫉妬と蹴落とし合いを奨励し、「宗教(観念論)」を利用して真実をごまかし、「自立」と称し、互助精神を封じて孤立させ、「憎しみからは何も生まれない」と説き、支配者への敵意を反らす……。
 これらは全て、支配者を保護するための誘導なのです。このような、まやかしの理屈に躍らされているうちは、我々の生活は決して良くなりません。
 

ハタハタを守った分別
 
 皆さんは、ハタハタはお好きでしょうか? あれの卵は、ぷりぷりしていて、まさに珍味というべきものです。
 さて、そんなハタハタが、しばらく前に市場から姿を消してしまったのですが、ここ数年で、またぼちぼちと魚屋やスーパーで見かけるようになってきました。
 この背景には、乱獲と漁師たちの決意があります。

 ハタハタは九〇年代初頭に乱獲がたたって漁獲量が最盛期の三〇分の一という無残な激減をしてしまったのですが、原産地・秋田の漁師たちが自ら取り決めた禁漁によって、少しずつ復活しているそうです。
 「漁師たちが自ら禁漁を決めた」と、後から文字で書くのは簡単なことですが、これは大変なことです。
 ハタハタ漁は秋田漁民の収入の五割以上を占めており、これを自ら縛るというのは、まさに自殺行為なのです。実際、これを決めるための話し合いも揉めに揉めたと言います。
 かくして、この漁民が自ら禁漁を決めたというのは、世界でも類を見ない例だそうです。
 
 筆者としては、即物的なものの考え方しかできない人が多い現状において、この英断に惜しみない拍手を送りたいところですが、そもそも禁漁ひとつにこんなに揉めなければいけないのは、ずばり当人たちの収入が絶たれてしまうからというシンプルな理由によります。
 これは、己の職をおいそれと変えることが許されず、無収入時の補償もろくになされない、資本主義ならではの問題です。
 言い換えると、自由に職を変えることを可能にするか、手厚く補償をすれば、こんなに揉めることなく、禁漁が可能ということです。
 捕鯨の問題も、BSEや鳥インフルエンザの問題も、漁師や生産者に対して何の損害保障もされていないから起こります。
 この点から、目先の利益を否応なしに追求しなければいけなくなる資本主義が、いかに環境に害をもたらすかが分かると思います。
 

ケインズ式・敗北
 
 資本家とその御用学者たちが、何かのひとつ覚えのように崇めているのが、「ケインズ式経済理論」です。
 これはどんなものかと言いますと、要するに「大事業万歳」理論です。
 公共事業などの大事業を起こす→土建会社に金が渡る→雇用が促進される→労働者が商業施設に金を落す→税収が上がる→大事業を起こす……という、無限回路です。
 一見、実にもっともな理屈ですが、実はこの理論には、いくつか穴があります。
 まず、最初の大事業を起こすのに、莫大な借金が必要になること。つまり、利益が利子を上回り続けない限り、ジリ貧を招くことになります。
 また、ケインズ式は質量保存・エネルギー保存の法則を、無視しています。ケインズ式は、ただひたすら消費をすることでのみ成立しますから、いつか必ず需要が消滅します。これはまさにバブルそのものなので、今さら改めて説明するまでもないでしょう。
 さらに、資本主義というのは労働者からの搾取によって成り立っているので、資本家が「貯める」という発想を捨てない限り、消費が起こるたびに貧富の差が広がっていくことになります。
 そして、大量消費を前提とするということは、大量の廃棄物が出るということであり、環境汚染にも拍車をかけます。
 
 もし、どうしても現在の日本でケインズ式に固執するならば、福祉に金をつぎ込むべきです。資本主義の底辺に生きる人間たちが、医療・裁判・介護・冠婚葬祭など、いざというときの出費を気にしなくてよいならば、みんな安心して金を使うことができます。その結果、ケインズ式にかなり近い……いや、それ以上の効果を得ることができるでしょう。
 現在、日本国民が本当に欲しているのは、大型建築物でもなければ、物質的な発展でもありません。貧富の差の是正と将来の安心を、何よりも求めているのです。
 しかし、相も変わらず政治家たちは、何かに取り憑かれたように公共投資と称して、誰も望んでいない建築物の建造に、精を出しています。なぜ、彼らはこんな無意味なことを続けているのでしょうか。
 答は明白。福祉に力を注いでも、汚職で儲けることができないからです。前述したように、政治家というのは、基本的に汚職をして初めて投資をペイできる職業です。
 しかし、日本医師会や弁護士会とつるんでも、システム上ゼネコンのような利益供与が行なえないため、政治家にしてみれば、まったく旨味がないのです。また、ゼネコンと蜜月関係になりすぎたために、今さら手を切るに切れないという事情もあります。
 何にせよ、ケインズ式は色んな意味で、現在の日本に似つかわしくない経済理論であることだけは確かです。この、未曾有の経済危機から脱するためには、従来型のカビの生えた発想から、いい加減抜け出す必要があります。
 

権力者の耳
 
 皆さんは、中立的な判断というものを迫られたとはあるでしょうか。
 誰かが争っているとき、双方の善悪を判断するために……というのが、主に中立的な判断を求められる場面でしょうが、実は中立的な判断などというのはありえないのです。
 
 まず、あなたは人生で色々な体験をしているはずですが、それによって、対象への感情移入の仕方が変わります。
 たとえば、大家と店子が揉めている場合、あなたが不良店子に悩まされた経験があるなら大家に、因業大家に泣かされた経験があるなら店子に、どうしても天秤を傾けてしまうはずです。
 
 さて、上記を踏まえて、「権力者の耳」について話してみたいと思います。
 何とも耳慣れない言葉ですが、これはカウンセラーである某氏が著書内で名づけた現象で、中立のつもりでクライエントの話を聞いていると、いつの間にか「権力者の耳」……つまり、権力者(例えば、子に対する虐待親)の側に立ってしまうというのです。
 同書ではこの件について特に分析はなされていませんでしたが、筆者はピンときました。
 権力者と非権力者。この両者が対立した場合の「戦い方」というものを想像してみてください。
 まず、権力者の場合ですが、これはただ守っていればいい。権力者とは、戦わずともすでに勝っている存在であり、まさに何もしなくていいわけです。「金持ち喧嘩せず」とはよく言ったものだと思います。
 では、非権力者はというと、これはもちろん、権力者とは逆の戦い方が求められます。がむしゃらに攻撃して、権力者を守る牙城を破壊しないと勝利にならないのだから大変です。
 
 さて、ここまで読んで分かってきた方も多いでしょうが、中立者はこの非権力者の猛攻を見て、本当は非権力者こそが権力に苛められてる存在なのに、「権力者が苛められている」という錯覚をしてしまう。これが、権力者の耳のカラクリというわけです。
 冒頭のカウンセラー氏は、「弱者であるクライエントの言うことを全て信じ切る。それが、権力者の耳にならない唯一の方法だ」と結論しており、筆者もまったく同感です。
 皆さんも、人の話を聞くときは「権力者の耳」に気をつけてください。
 

国民総下流
 
 いつから言われ始めたのか、日本は「国民総中流」ということになっています。これはどう考えても、矛盾に満ちた物言いです。
 そこで、ここではこの「国民総中流」の嘘を、暴いてみたいと思います。
 
 少し周囲を見渡してみれば分かりますが、一方で路上生活者がおり、また一方で、莫大な資産を持つ資本家がいます。まず、ここからして、「総中流」というのが、嘘と分かります。
 この話に対して、「そうじゃない。総中流というのは言葉のアヤで、日本人のほとんどという意味だ」という反論があるでしょう。しかし、それもまた嘘です。
 
 企業や役所など、資本主義社会に存在する組織の大半は、権力関係が、完全なピラミッド型になっています。そして、個人の収入は権力に比例するので、底辺であり、マジョリティであるヒラの労働者たちは、低収入に喘ぐことになるのです。
 しかし、こういう話をしても、「いや……日本人のほとんどは、食事に不自由せず、小さいながらも住居や車だって持っている者が多い。これこそ、まさに中流じゃないか!」という抵抗を、諦め悪く行なう人物もいることでしょう。しかし、これもまた大嘘です。
 
 こういう問題は、住居について考えると、よく見えます。
 日本人の持ち家願望は、非常に根強いものがあり、平気で三〇年ぐらいのローンを組みます。逆に言えば、月々、一〇万円を越える金を、三〇年間休まず払い続けなければ、底辺の労働者たちは、狭苦しい家一軒を買うこともできないわけです。
 「国土が狭いんだから、仕方ないじゃないか!」という反論はあるでしょうが、それもはなはだ無意味です。
 例えば、インドネシアの方に、ブルネイという石油原産国があります。この国の国土面積は、沖縄に毛が生えた程度なのですが、中流とされる国民層は、庭付き・プール付きの豪邸に住んでいます。
 もちろん、これより上も下もあるわけですが、これがブルネイの「中流」なのです。一方、翻って日本を見てみると……経済大国が、聞いて呆れます。
 
 借家の場合にしても、敷金・礼金・共益費・損害保険を、借り主は大家に払わなければいけません。これらは本来、法律的にはまったく払う義務のないものです。
 特に、礼金は酷い。対等の立場のはずなのに、借り主は「貸して下さって、有り難うございます」と、お礼をさせられるのです。
 敷金も、あとあと返ってくるとはいえ、大家はその敷金を元手に、利殖に手を出すことができます。また、非道な大家になると、何だかんだとゴネて、結局返さないということもあります。一体、これのどこが、中流の生活なのでしょうか。
 住居がこうなら、食事にしても、衣類にしても、一事が万事この調子です。
 断言しましょう。日本人は、「総中流」ではなく、「総下流」。それを、中流と思い込まされているだけのことなのです。
 豪邸拝見番組を見て、溜め息をついている暇があるならば、この国にはびこる理不尽を一掃するために活動した方が、よほど建設的というものではないでしょうか。
 

社会不適合者こそ次世代の社会適合者
 
 資本主義の世界において、無職の人間・夢を語る大人・登校拒否児・犯罪者などは、社会不適合者として弾圧されています。
 しかし、彼らは本当に、無用の存在なのでしょうか。ひとつ、検証してみましょう。
 結論を先に言えば、社会不適合者は、「その社会には」不要の存在です。しかし、鍵括弧で括って強調したことからも分かるように、社会の方が変われば、その限りではありません。実例を見てみましょう。
 
 かつて、日本が大日本帝国と名乗っていたころ、反戦や民主主義を掲げようものなら、間違いなく非国民(=社会不適合者)と呼ばれ、村八分にされました。
 しかし、戦後五〇年を過ぎた現在は、むしろ、かつての非国民こそが、普通と呼ばれる存在になっています。むしろ、未だに「討ちしてやまん、鬼畜米英」などと叫んでいる人がいれば、危険視されるでしょう。
 また、キリスト教の説く天動説全盛の、一六世紀のイタリアで、地動説を唱えたガリレイも、やはり教会によって、社会不適合者として、焼き殺されかけました。
 ゴッホも、生前はまったくといっていいほど絵が売れませんでした。そんな彼もまた、資本主義の価値観で言えば、「いい歳こいて夢を見続けて、最後は自殺した社会不適合者」ということになります。
 
 このように、社会不適合者などというレッテルは、絶えず変化し続ける、至極いい加減なものなのです。
 労働意欲が湧かない人間がいれば、それは直感的に、資本家による搾取を感じ取った人間です。登校拒否児も犯罪者も、無償の愛情や努力より、金と結果が最も評価される世の中だからこそ、出現します。
 もし、あなたが社会不適合者とよばれる存在であっても、まったく気に病む必要はありません。むしろ、あなたを罵る人間こそが、次世代の社会不適合者なのです。そして、両者の立場が逆転する日は、すぐそこまで来ています。
 無論、そのような世の中にするための自己努力が必要なのは、言うまでもありません。
 

資本主義の終焉
 
 資本主義の問題点を暴いてきたこの章も、いよいよ最後となりました。
 自然を破壊し、人心を踏みにじることで、物質的な繁栄を促し続けてきた資本主義も、ついに滅ぶときが来たようです。
 しかし、何もこれは驚くようなことではありません。歴史の積み重ねの中で、原始共産主義、封建主義、無政府主義など、様々な政治思想が現れては消えて、今の世界になったわけです。日本とて例外ではありません。
 
 さて、本書を読まれて、「ついに、我々の時代が来るのだ!」と意気上がる、共産(社会)主義者の方もおられることと思います。
 しかし、待って下さい。本当に、共産(社会)主義は、次世代のスタンダードたり得るのでしょうか?
 答は、「否」です。
 このことを証明するため、次章では、共産(社会)主義の問題点について、検証してみたいと思います。
 
 

第二章 共産(社会)主義の絶望
 

共産(社会)主義の絶望
 
 共産主義は、実のところ、新しいシステムではありません。むしろ、人類最古の経済・政治システムです(ちなみに、この古代の共産主義は、近代共産主義と区別するために、「原始共産制」と呼ばれます)。
 そして、後に君主制が台頭したことによって、半ば滅び去ることになりました。そのため近代では、アボリジニーやネイティブ・アメリカンなどの社会に、その痕跡を留めるに過ぎない、マイナーなシステムと化しています。
 
 しかし、近年、このシステムを、現代に再び流行らせようと試みた人物が現れました。それが、マルクスとエンゲルスです。また、彼らは同時に、科学的社会主義というシステムも考案しました。
 二〇世紀に入ってから、彼らの夢は実り、ソビエト連邦、キューバ、中国など、様々な共産(社会)主義国家が誕生しました。
 これらの国々は、当初一〇年ぐらいは、とても上手く機能していました。しかし、それ以降はどんどん歪みが大きくなり、二一世紀の現在、ソビエト連邦・東独は解体し、中国は資本主義化に向かい、共産(社会)主義圏は次々に、崩壊しています。
 
 国家が崩壊するということは、運営システム……すなわち経済思想に問題があったということになります。つまり、マルクスとエンゲルスは、「次世代のシステム」の選択を、誤ったのです。
 そこで、この章では、共産(社会)主義にどのような問題点があるのかを、考察してみたいと思います。
 

共産(社会)主義とは
 
 共産主義と社会主義は、それぞれ異なる経済・政治思想なのですが、共通点が多いために、本書の中では、ほぼ同一のものとして、ひとまとめに扱っています。
 そこでまず、両者の共通点を洗い出してみましょう。
 
@(建前上は)身分の上下はない。
A(建前上は)収入格差はない。
B全国民は公務員となる。
C職業選択の自由はない。
D物価は国家が定めている。
 
 以上が、共産主義・社会主義共通のシステムになります。各々の要素の検証はとりあえず置いておき、続いて、両主義の相違点について見てみましょう。
 
・共産主義……物質に対する、「所有権」の概念が無い。
・社会主義……物質に対する、「所有権」の概念が有る。
 
 すなわち、両主義の袂を分かっているものは、「所有権の有無」であるということになります。
 これだけでは、今一つご理解に至らないと思われますので、実例を見てみましょう。
 あなたはある日、どうしても薬が必要になった。しかし、すでに手持ちの薬は使い切っている。ところが、隣家はちょうど、必要な薬を持っていた。
 このような場合に、両主義の違いが現れます。
 まず、共産主義ならば、隣家に行って、勝手に薬を取ってきて構いません。なぜなら、所有権……すなわち、「誰それのもの」という概念がないからです。ですから、「窃盗」という概念も存在しません。
 一方、社会主義では、隣家に頼んで、薬を分けてもらうことになります。もちろん、断られれば、別の方法を考える他ありません。社会主義の世界には所有権があるので、このように、資本主義の世界と同じ結果になるわけです。
 
 以上の説明で、両主義の微妙な差異が、ご理解戴けたと思います。しかし、本書内では相違点よりも共通点が多いことから、基本的にほぼ同一のものという扱いにしますので、その旨をご了承下さい。
 

唯物論とは
 
 哲学思想のひとつに、「唯物論」と呼ばれるものがあります。マルクスとエンゲルスが提唱している、共産(社会)主義を理解するためには、先に唯物論を理解する必要があります。まずは、唯物論の話をしましょう。
 唯物論の骨子は、「事実をありのまま受け入れる」というものです。これは、科学的、具体的、現実的などと、例えることができます。
 一方、唯物論と対を成す思想として、「観念論」があります。こちらは、「信じたことは、現実に勝る事実である」という発想で、非科学的、抽象的、空想的などと、例えることができます。
 そこで、唯物論と観念論の実例を見るために、ちょっとしたクイズを出題します。次に挙げる要素のうち、観念論的なものはどれでしょうか。
 
@旧日本軍による、桜花(人間爆弾)・回天(人間魚雷)特攻。
Aオスカー・シンドラーの、贈賄によるユダヤ人の保護。
Bマスコミの言葉狩り(表現規制)。
 
 正解は、@とBです。では、それぞれについて検証してみましょう。
 
 @……旧日本軍は、はっきり言って、狂気の集団でした。特に、太平洋戦争末期の暴走ぶりは凄じいもので、それは特攻戦術に現れています(本当は、こんなものを戦術などと呼ぶのも口はばったいのですが……)。
 敗色濃厚になり、物資の欠乏からまともな兵器が造れなくなった旧日本軍の首脳部は、ついに「人間を爆薬満載の戦闘機(あるいは魚雷)に乗せ、敵軍艦に突っ込ませる」という、狂気の作戦を決行。若い命を無駄に散らせました。これは、あきらかに観念論者の行動です。
 一方、唯物論者は、物資もろくに調達できなくなった時点で、さっさと降伏します。どちらが、国民にとって有り難い指導者かは、言うまでもないでしょう。
 
 A……オスカー・シンドラーの善行は、映画にもなったのでご存じの方も多いでしょう。彼は、ナチス支配下のドイツで、一〇〇〇人以上のユダヤ人を、大量虐殺から救った人物です。
 シンドラーはもともと、軍需景気でひと山当てようと上京してきた、戦争ゴロの一人に過ぎませんでした。しかし、ヒトラーのやり方にいつしか強い反感を覚え、彼なりの方法でヒトラーと闘うことにしたのです。
 その方法とは、「強制収容所の所長を買収し、ユダヤ人を労働者として雇って匿う」というものでした。これは、いち商人に過ぎないシンドラーに採り得る、最上の方法です。
 もし、シンドラーが、「差別は止めましょう」と連呼するだけの観念論者であったならば、シンドラーはたちまち死刑になったことでしょう。そして、結果的に、彼が救えるはずだった人々も、敢えなく強制収容所送りになり、皆殺しにされたはずです。
 
 B……大半のマスコミには、「言葉狩り」と呼ばれる悪習があります。これは、少しでも抗議を受けそうな単語を、文脈に関係なく削り取るという行為です。ちなみに、削除の対象になる単語には、「気違い」「乞食」「めくら」などがあります。
 しかし、これらの単語そのものを、いくら機械的に潰したところで、彼らの人権が回復するわけではありません。
 例えば、「失せろ、めくら!」という罵声を、「失せろ、目の不自由な人!」と塗り替えたところで、盲人の心が傷つくことには変わりないのです。
 
 マスコミが、こんな愚行を重ねる理由は、ふたつあります。まずひとつが、「触らぬ神に祟りなし」式の、ことなかれ主義。そしてもうひとつが、「言霊」という迷信です。
 言霊というのは、日本に古くから伝わる観念論で、「言ったことが現実になる」という発想が、その骨子です。現在でも、受験生に対して「落ちる」や、新郎新婦に対して「割れる」が禁句となっているのも、この言霊の影響です。
 もちろん、ただの迷信ですから、現実になるわけがありません。しかし、マスコミはこの迷信を打ち破れないばかりに、言葉狩りで無駄な労力を費やしているわけです。
 問題を解決するために必要なのは、ごまかしではなく真実です。差別を打ち破るには、偏見を破壊する真実を、根気強くアピールするしかありません。
 ちなみに、政府とその太鼓持ちが、ちょくちょく出している「景気回復宣言」も、ただの言霊です。ごまかされないように、ご注意を。
 以上の例から、唯物論と観念論の違いが、ご理解戴けたことと思います。
 マルクスとエンゲルスは、この唯物論を用いて資本主義の矛盾を看破し、共産(社会)主義の正当性を説きました。
 しかし、悲しいかな。彼らが武器と頼んだ唯物論こそが、今度は共産(社会)主義の矛盾を看破するための、道具となるのです。
 そこで、引き続き、このことについて検証してみましょう。
 

共産(社会)主義は唯物論の前に屈する
 
 この章の冒頭でも述べたように、共産(社会)主義を政治思想に選択した国は、次々と崩壊の運命を辿りました。また、それ以前の問題として、原始共産制は、遥か昔に、半ば滅び去ったという事実があります。
 これを、唯物論の視点で考えれば、「共産主義は、既に終わった経済・政治システムである」という現実が、浮き彫りになってきます。
 では、なぜ共産(社会)主義は滅んでしまったのでしょうか。検証してみましょう。
 
 前述の「共産(社会)主義とは」でも少し触れましたが、共産(社会)主義は、「万民平等」の建前を持っています。ところが、その一方で、職業選択の自由を奪うなど、人民の徹底した管理を行なうという矛盾も行なっている。ここがポイントです。
 「それは、東独やソ連だけの話だ。日本はそうならない」と反論する、共産(社会)主義者もあることでしょう。
 しかし、日本でも共産(社会)主義になれば、間違いなく、これらの国と同じ道を歩むことになるでしょう。これは、現代社会と共産(社会)主義の相性の悪さゆえ、避けて通れないことなのです。
 
 現代の社会は、職業の分化が徹底しています。例えば、弁護士と医者と絵描きとプログラマーがそれぞれ職業を交換しても、ろくな結果を残せないでしょう。
 また、職業ごとに、人気度の差というものがあります。弁護士や医者に憧れる人間は多いですが、コンビニの店員や土方に憧れる人間は、現実的に見て、まず存在しません。
 なぜならば、(スポーツ選手や職人は別として)肉体労働者というのは、基本的に嫌々就く仕事だからです。このことは、就職活動の現実を見れば分かります。
 しかし、もし共産(社会)主義の世界になり、「誰でも好きな仕事に就いてよい。しかも、収入は万民平等」ということになれば、どうなるでしょうか。
 肉体労働の担い手が、皆無になります。しかも、企業や軍隊では、社長や将軍だらけになり、指揮系統が大混乱をきたすでしょう。
 ひとつ、考えてみて下さい。収入が同じであったら、皆さんはどちらの仕事に就きたいでしょうか。
 
@後方で指揮する将軍と、前線で殺し合いをする兵卒。
A火力発電所の作業員と、原子力発電所の作業員。
B映画の主演とエキストラ。
 
 恐らく、ほとんどの方が、前者を選んだことでしょう。@とAの後者は、生命に危険が及びます。Bの後者は、やり甲斐の問題です。
 この検証によって、共産(社会)主義の世界は、職業選択の自由と、すこぶる相性が悪いことがお分かり戴けたと思います。
 
 では、もしこのまま共産(社会)主義を推し進めていくと、どうなるでしょうか。
 結果は当然、東独やソ連の二の舞です。全員が上級職などという世の中では、社会がまともに機能しませんから、素早く権力の座に就いた者(恐らく、革命勢力の上層部になるでしょう)は、職業選択の自由を規制するようになります。
 もちろん、あぶれて不満足な仕事を押しつけられた者からは、怨嗟の声が挙がります。そこで、弾圧機関である「秘密警察」の設立と、あいなるわけです。
 
 さて、このようにして己の地位を盤石にした支配者たちは、少々のズル……つまり、自分たちの収入を、役得という形でつり上げるようになります。何しろ、そのズルを咎める手段は、被支配者にはないのですから。
 そして、この少しのズルが雪だるま式に巨大化し、やはり階級社会ならではの、貧富の差が発生するのです。繰り返しますが、日本も共産(社会)主義になれば、間違いなく、このシミュレーション通りの道筋を歩むことになります。
 

共産(社会)主義は蘇らない
 
 以上の観点から、共産(社会)主義は、資本主義の跡を継ぐシステムではないことが、お分かり戴けたと思います。
 この、「職業選択の自由がない」ということこそが、共産(社会)主義にとって、唯一にして最大の、システム上克服し難い欠点なのです。
 もしも、人類が全ての職業分化を捨てて、原始の生活に戻れるなら、共産(社会)主義にもまだ目があります。しかし、一度精神労働の味を覚えてしまった我々には、もはやそれは無理な相談でしょう。
 
 「では、もはや人類は、矛盾に満ちた資本主義の中で、生きるしかないのか?」……こういう嘆きが聞こえてきそうです。
 しかし、絶望するのはまだ早計です。筆者は本書において、「自由階級主義」という、乾坤一擲の妙手を用意しました。
 そのようなわけで、次章では、本書の表題である自由階級主義について、ご説明致しましょう。
 
 

第三章 そして、自由階級主義
 

そして、自由階級主義
 
 第一章と第二章での考察によって、資本主義・共産(社会)主義ともに、次世代を担うに相応しくない経済・社会システムであることが判明しました。これにより、日本が沈没から救われる道はなくなったかに思えます。
 しかし、世を儚むのは、いささか気が早いというものです。筆者はここに、新たな社会システム「自由階級主義」を用意しました。
 せめて、絶望する前に、この「真の構造改革」を試してみてはいかがでしょうか。
 

自由階級主義とは
 
 自由階級主義の基本理念は、「人気のない仕事に就いている者ほど、報酬を多く受け取れる」というものです。 これによって、「低収入だが、やりたい仕事をする」か、「高収入だが、やりたくない仕事をする」かという、二択が発生します。
 その結果として、「いい仕事」という概念がなくなり、職業間の人気の差が是正されるのです。
 これはずばり、人類初の「真の職業選択の自由」が生まれることを意味します。
 

収入の変動相場制化
 
 上記の理念を実現するのが、「収入の変動相場制化」。株式や競馬でおなじみの、あのシステムです。
 この変動相場制というシステムは、「人気度と入手時の価値が、反比例する」という性質を持っています。底値を打っていた不人気株が上がれば儲かり、不人気馬が勝利すれば万馬券となります。
 自由階級主義では、まず就労可能年齢の国民すべてが、「毎月役所に、希望する職業・職場・役職を申請する」ことから全てが始まります。そして、役所は人気度に応じて相場を作成し、これを発表します。
 あとは国民の総利益を一度すべて天引きし、その上で日当なり月給なりという形で、その時点での評価額に従った給与を、国民に支払えばよいわけです。
 
 このシステムを実現するためには、専用の自動計算システムが必要となります。
 これの作成には、「各職業の人間が、社会に何人必要とされているか」などの、グローバルなデータが必要になるため、今の時点では、完成型を提示することができません。しかし、とりあえずの雛形として、以下の計算式を示すことはできます。
 
 「収入=最低基本額+追加額×定員÷希望者数)」
 
 最低基本額は、「最低限、このぐらいはないと生きていけない」という額です。今の日本で言えば、一五万円ぐらいでしょうか(自由階級主義下では、福祉が徹底されるので、一〇万円ぐらいでもいいかも知れません)。これだけは、何らかの理由により働いていない人間でも、何の遠慮もなく受け取ることができます。
 
 追加額は、最低基本額に加わる特典です。
 
 定員は、「その職に携わる者が、社会に何人必要とされているか?(あるいは何人まで存在が許されるか?)」という数値です。たとえば、社長はその企業ごとに一人ずつしか必要ありませんし、棋士や画家などは一人もいなくても、とりあえず困りません。逆に、単純労働の従事者などは、かなりの人数が必要となります。
 この定員の数は固定値ではなく、そのときどきで求められているものによって、随時変動します。例えば、世の中に突如石炭ブームが来たら、炭鉱労働者の定員が増しますし、コンピュータの需要が頭打ちになったら、工員や設計者の定員が減少するわけです。
 
 希望者数は、「その職に就きたいと、何人が役所に申し出たか」という数値です。希望者数が、その職業の定員を上回れば、一人当たりの収入(分け前)が減り、下回れば逆に増える訳です。

 
副次効果
 
 特定の職業に人気が集中しない、あるいは集中しても破綻しないシステムが採用されると、真の職業選択の自由が得られるというのは、前述した通りです。ここでは、それによって派生する、数々の副次効果について触れてみましょう。
 
 まず、就職における差別に対して、劇的な効果があります。何しろ、望む職につくのに試験だの面接だのを受ける必要がなくなりますから、低学歴を含むあらゆる被差別者が、何の妨害を受けることもなく、好きな仕事に就くことができるのです。
 また、離職後の再就職も究めて容易であるため、クビを恐れて上司の顔を伺うなどという卑屈な行動をしなくてもよくなります。
 さらに、職場と役職も自在に選べるということは、ねちっこく苛めていた部下が、来月には直属の上司になって帰ってくるという可能性が発生することになり、悪質な職場イジメに対する抑止力ともなります。
 
 このように、権力と収入のピラミッド構造を反比例させることによって、社会の矛盾を瓦解させ、人権を強力に守る。これが、自由階級主義の力なのです。
 

トップが複数?
 
 ここまで読んでこられて、「社長が複数いるような職場なんて、大丈夫なのか?」と疑問を抱く方もおられるでしょう。
 この危惧に対しては、多数決を採用して、開き直るのがとりあえずベストです。本書では多数決を戒めていますが、職業選択の自由を貫くためには、止むを得ない必要悪です。
 少なくとも、多数決を「正義」でなく「必要悪」と明言しているぶん、よほど潔いと言えるでしょう。
 また、ひとつの職に希望者が群がると、収入が激減しますから、耐え切れなくなった人間が脱落し、自然と人数が調整されることになります。
 

解雇について
 
 自由階級主義下では、「上司」と呼ばれる存在には、「部下」を一方的に解雇する権利があります。
 これにより、「高収入目当てで不人気な仕事に就いたが、仕事は手抜き」などという不届き者を、追い出すことができます。
 一方、自由階級主義の社会では、次の職に就くことが極めて容易であるため、解雇された側も、路頭に迷うという最悪の事態は回避することができます。
 ちなみに、解雇されたあとは、「かつての上司の上司」として復帰する選択肢もあります。不当な解雇をすれば、今度は自身が放逐される側に回るかも知れないわけです。
 このように、自分の意志で階級間を自由自在に移動できるならば、階級はあっても階級差別はないということになります。
 差別とは、その立場を自由に選べないからこそ発生するものなのです。
 

認められない職業
 
 自由階級主義下では、金融業・地主・相場師・ギャンブラーなど、すべての不労所得は職業として認められません。なぜなら、これらの行為は、何一つ社会に貢献しないからです。

 ちなみに、ギャンブラーに関しては、将棋や碁のように、「知のスポーツ」として認められれば、少ない定員ながらも、職業として認められることを、附記しておきます。ただし、その場合はちゃんと収入の変動相場制システムに従い、賃金を得ることになります。
 また、保険業も職業とはなり得ません。保険とは、福祉が発達していないからこそ、人々が安心を買うために加入するものです。しかし、自由階級主義のような、福祉の徹底を図る社会システム下では、存在意義をまったく失うことになります(余談ですが、日本人の保険加入率は、世界随一だとか……)。
 
 他には、営業職も存在意義を失うでしょう。自由階級主義下では、無理をして物やサービスを売らなくても、十分やっていけるからです。
 宗教家も、唯物論を前提とした自由階級主義の世界においては、職業として認められません。ただし、繰り返しているように、趣味として行なうぶんには、一向に構いません。
 

物価の固定
 
 自由階級主義では、収入を変動相場制にしています。ですから、物価は逆に固定化する必要があります。
 例えば、ある人物が選んだ仕事が、物価を自在に操作できるもので、なおかつ人気職=低収入だったとしましょう。この人物がよほど出来た人間でなければ、自分の乏しい収入でも楽に暮らせるような、とんでもない物価にするのは明白です。
 
 結果として、昨今のデフレ・スパイラルなど比にならない、異常なまでの超デフレが発生します。すると、人気薄の仕事に就いた高所得層が物を買い漁り、やがて「金はあるけど物がない」という、超インフレ経済が訪れて、国家が崩壊することになります。
 これを防ぐためには、物価の固定が不可欠です。そして、これらの物価の設定式は、従来型の「価格=需要÷供給×人件費」ではなく、「価格=人件費」という計算で行なうことになります。
 
 ここでの人件費とは、変動相場制の処理を施す前の、「その製品を作るのに、何人ぶんの人手が必要か?」という、単純計算のことです。
 石炭や洗濯板のような、需要が消滅してしまった物が、(需要に対して)不当な価格を維持することになるので、疑問に思う向きもあるでしょう。しかし、そんな物はいくら安くしても、どうせ誰も買わないので、別段問題はないはずです。
 逆に、高価なものも、人手が必要であったり、希少であったりするわけですから、それなりに価格が高くなり、バランスが取れます。
 ただし、輸出入(個人レベルのものや、密輸も含む)と為替だけは気をつけなければいけません。資本主義とは完全に異なるルールで経済を運営するため、システムの隙を衝かれて悪用されると、とんでもないことになるからです。資本主義市場の相場に合わせた関税による調節が、必要不可欠になります。為替も、変動制にした方がよいでしょう。
 

まずは平等を
 
 自由階級主義党(仮名)が第一政党となった場合、まず手をつけるべきは、不当に広がった貧富の差を、是正することです。
 要するに、土地・家屋・食料などの、ありとあらゆる「何か」の価値を算出し、それを国民に再分配するのです。
 この処置は、憲法の「所有権」に抵触しますが、同じ憲法の「人権」で保証している、「健康的で文化的な生活」を、赤貧に喘ぐ低所得層に保証するために、必要不可欠となります。
 また、公共料金・住居・医療費・教育費・機材の貸与・職場(学校、医療機関)への交通費・裁判費用などの国民負担は、すべて国家負担にします。一見、極めて国庫を圧迫するようですが、以下の理由により、十分に運営が可能です。
 
 まず、公共料金と住居の公費負担は、「生活するのに、最低限これだけ必要」というぶんだけです。この範囲を超えた場合は、本人負担となります。
 全医療費の国費負担は、短期的に見れば極めて大きな負担ですが、長期的に見れば、国民が健康になることで労働力が強化され、結果的に増収に繋がります。
 教育費も同様で、国民の知性が伸びれば、それだけ国の力が発展することになります。
 問題は、考古学や哲学のような、国の発展に直接貢献しない学問ですが、これらを除くのは、職業差別への発展に繋がるので、ちゃんと国費で負担すべきです。
 そもそも、職業としての哲学者や考古学者は、定員がすこぶる少ない(=収入が低い)でしょうから、費用対効果が悪化するほど生徒数は増えないはずです。
 
 機材の負担は、その職業になくてはならない物を、国が貸与するというものです。例えば、プログラマーに必要な物はUNIXやパソコン。医者に必要な物は薬品や医療機器という具合です。これによって国民は、機材購入費を自力で稼ぐという負担から解放されます。もちろん、離職したら、国に返還しなければいけません。
 
 交通費に関しては、説明するまでもないでしょう。
 
 裁判費用の負担は、訴訟費用と弁護士費用の両方です。
 まず、弁護士の費用ですが、弁護士もまた収入の変動相場制のルール下で収入を得ているので、依頼者が改めて報酬を支払う必要はありません。
 次に訴訟費用ですが、現在の日本では告訴の際に、例え本人訴訟でも一万円の費用がかかります。
 これは、公費負担の軽減というより、(国にとって)下らない事件を、国民の権利である裁判にかけさせないための、姑息なブレーキに過ぎません。ですから、これを公費で完全に賄っても、特にどうということはないのです。
 
 裁判費用を無料にすると、今まで告訴をためらっていたような細かい事件が、大量に法廷に持ち込まれ、法治機能がパンクする可能性があります。
 この問題については、教育と裁判のシステムを改善することで、法曹家の負担を大幅に減らすことが可能です。この改善案の詳細については、後述します。
 
 また、「遺産」という、絵に描いたような血統差別&不労所得も、一切廃止します。これにより、親の出来次第で子の人生が半分以上決まってしまうという不公平が、かなり是正されることになります。

 
教育システムの変更
 
 今の日本の教育機関は、「いい仕事」へのパスポート+「多数は正義」「搾取は正当」「蹴落とし合いは競争」という資本主義理論を子供に刷り込むために存在しています。
 自由階級主義では、このような本末転倒を戒め、純粋な学問と職業訓練の場とします。
 
 まず義務教育ですが、ここで教えるのは、四則演算・法律・新言語の三種のみで、他の学問は全て生徒たちの任意となります。これは、「平凡な歯車」ではなく、「特化した天才」を育むための教育方針です。
 
 四則演算は、とりあえずこれが分かれば人間は文明社会で生きていけます。
 
 法律は、自分たちがどんなルールの下で生きているのかを教えます。これにより、国民の法律に対する理解が深まり、違反者や齟齬が激減します。また、法曹家も簡単に増やせるようになるので、裁判費用の無料化による告訴の増加にも対応できます。
 
 新言語は、儒教という差別肯定思想の影響を大きく受けた、日本語という言語を廃止するために導入します。
 日本語は、性別・年齢・彼我の立場によって、言葉遣いの変更を強要されます。自由階級主義の骨子は「差別の絶対撤廃」なので、このような差別思想に染まり切った言語を認める訳にはいきません。
 とは言うものの、自由階級主義下では、すべての人間が自由に身分を選べるようになるので、それほど神経質にならなくていいかも知れません。ぼちぼちやっていけばよいでしょう。
 
 続いて、選択教育の説明に移りましょう。これは、社会・歴史・数学・物理・体育・音楽など、前述の必修科目以外の、全ての学問が含まれます。
 これによって、子供たちは本当に興味のある学問だけを学ぶことができます。つまり、特定の能力に特化した人間……つまり天才が、無意味な学問に時間を割かれて、時間と才能を無駄遣いしなくても済むようになります。
 
 そして、専門学校。つまり、職業訓練のための教育機関です。
 これには、電気工事、電車の運転、医学、調理、消防、プログラム、政治など、様々なものが含まれます。ものにもよりますが、いかな自由階級主義と言えど、大半の職業は、こうした下積みを経てから就くことになります。
 ちなみに、これらの学校・教室は、生徒の任意で自由に選択することができます。
 

法の運営
 
 自由階級主義下では、裁判費用はすべて無料となります。その結果、細かい訴訟が大量に起こされ、法曹家の大幅な不足を招くことが、容易に想像されます。
 しかし、案ずることはありません。まず、自由階級主義では、義務教育の中に「法律」を組み込んでいます。

 なぜ資本主義下で弁護士が引く手あまたかと言うと、ずばり国民が法律について、ほとんど教育を受けていないからです。
 このせいで本人訴訟が困難なため、弁護士に依存することになるのです。
 ですから、義務教育という形で国民に法律を教えれば、弁護士の負担は大きく減少します。さらに、国民総法曹家という状況になれば、検事や裁判官の確保も容易になります。
 
 他には、裁判の高速化のために、ポリグラフ(通称、嘘発見器)を全裁判所に導入すべきでしょう。
 確かに、ポリグラフは完璧に嘘を発見できる手段ではありません。しかし、一方で検事や裁判官も完璧ではありません。だから、冤罪が起こるのです。また、現行の裁判では原告側にまず立証責任が負わされ、これが証明できないと自動的に敗訴します。これは、大変原告に不利なわけですが、この不公平をいくばくか是正できるわけです。
 そして、警察が安くはない予算を出してポリグラフを導入しているのは、一定以上の効果があるからです。効果があるならば、これを法廷で用いない手はありません。
 過信しない程度にポリグラフを積極的に導入すれば、証拠不足の事件の立件にも、光明をもたらすことでしょう。
 
 また、「損害賠償を、ある程度国家が立て替える」というのも有効です。現行の制度下で裁判が長引くことの最大の問題点は、判決が下るまでの長い期間、原告が損害を抱えたまま生きなければならないということです。
 そして、判決後には、原告に余剰ぶんを払い戻させる(または不足分を補う)のです。資本主義の世界でこんなことをすれば、不労所得のタネ銭にされるのがオチですが、自由階級主義には投資と言う概念がないので、別段問題はありません。
 

能力評価について
 
 自由階級主義のシステム解説を読み進めていて、「やはり、有能な人間が高給を得るべきでは?」「無能な人間が要職に就くのは危険では?」といった疑問を抱かれた方も多いかと存じます。これらの疑問について、順に検証していきましょう。
 まずは前者。確かに一理ありますが、これでは資本主義の荒んだ蹴落とし合いが、繰り返されるだけです。LHSの温床となるような社会システムは、人道主義の下に決して認めるわけにはいきません。
 続いて後者。これに関しては、現在の日本で要職に就いている者のうち、有能な人間が果たしてどれぐらいいるかを考えてみれば、ある意味愚問であると言えます。
 また、要職であるということは恐らく人気が高い=給与が低いでしょうから、少なくとも金目当ての志の低い人間は、自然に淘汰されると考えられます。
 

不祥事対策
 
 いかな自由階級主義と言えども、邪心を起こして、賄賂や利殖などの不労所得や小遣い目当ての情報漏洩を目論む者は、やはり現れるでしょう。
 これに対しては、強力な権限を持つ監査組織を設けることで対処します。
 こう言った組織に強力な権限を与えると、「暴走」が懸念されます。しかし、これらの組織の人事もまた、収入の変動相場制に基づく、自由就職のルールに乗っ取って行なわれています。すなわちそれは、全国民が「監査組織の監査」を、自在に行なえることを意味します。
 これはつまり、「国民>監査組織>要職>国民……」という三すくみになるということです。ジャンケンを見ても分かるように、三すくみの構造というのは非常に安定しているので、国家を永く繁栄させることができるでしょう。
 なお、利息を付けて金を貸すことを禁じるのは、実に簡単です。債務者に対して、一切の返済義務を法的に負わせず、債権者がこれを取り立てようとしたら、債権者を法の下に罰すればよいのです。
 こうすれば、わざわざ他人に金を貸す物好きは存在しなくなるでしょう。
 

自由階級主義の実現
 
 自由階級主義の実現。この一大事業を、我々はいかにして実現すべきでしょうか。
 まず、武力革命が考えられますが、これはお勧めできません。日本国民は火器を剥奪されているため、戦闘力ではとても銃器を装備した警官にかなわないからです。よしんば勝ったとしても、犠牲が大き過ぎます。
 また、こういったことはきちんと民意を得ていなければなりません。そして、十分な民意が得られているなら、武力蜂起などせずとも、選挙で十分通用するはずです。
 ですからまずは、民意を得るべく自由階級主義の思想を広げることから始めます。本書はの上梓は、そのための第一歩なのです。
 自由階級主義が真に人々の理解を得られれば、いずれ自由階級党が、単独でほとんどの議席を得られる日が来るでしょう。そうすれば、あとは新憲法を国民に問うだけです。
 


 
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